昨日の午後にはインターネットの検索サイトトップページに報じられまして、「ありゃりゃりゃりゃ」という感じでした。
今朝の『朝日新聞』さんから。
日本文学研究者のドナルド・キーンさん死去 96歳
日本の古
典から現代文学まで通じ、世界に日本の文化と文学を広めた、日本文学研究者で文化勲章受章者のドナルド・キーンさんが24日、心不全で死去した。96歳だった。葬儀は親族のみで営む。喪主は養子で浄瑠璃三味線奏者のキーン誠己(せいき)さん。

1922年、米ニューヨーク生まれ。コロンビア大在学中に「源氏物語」と出会う。日米開戦に伴い42年、米海軍日本語学校に入学。語学将校としてハワイや沖縄で従軍、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をした。沖縄の前線ではスピーカーで日本兵に投降を呼びかけた。戦後、ハーバード大、ケンブリッジ大で日本文学の研究を続け、53年から京都大に留学。英訳「日本文学選集」を編集し、米国の出版社から刊行、日本文学の海外紹介のきっかけを作った。
谷崎潤一郎や川端康成、安部公房、三島由紀夫、司馬遼太郎ら日本を代表する作家との交遊が文学研究を豊かにした。「徒然草」「おくのほそ道」などの古典や安部、三島ら現代作家の作品を英訳。「明治天皇」「正岡子規」「石川啄木」など評伝にも力をそそぎ、作家の生涯を通して日本人の精神を浮かび上がらせてきた。
62年、菊池寛賞を受賞。82~92年に朝日新聞の客員編集委員を務め、平安から江戸期の日記文学を論じた「百代(はくたい)の過客(かかく)」(84年、読売文学賞)などを連載した。83年に山片蟠桃賞。86年には、コロンビア大に「ドナルド・キーン日本文化センター」が設立。92年コロンビア大名誉教授。97年に「日本文学の歴史」(全18巻)を完結し、同年度の朝日賞を受賞した。2008年に文化勲章。
日米を行き来していたが、11年の東日本大震災後、日本への永住を決めて日本国籍を取得。講演などで被災地を励ました。13年には、キーンさんが復活を支援した古浄瑠璃の縁から新潟県柏崎市に「ドナルド・キーン・センター柏崎」が開館、蔵書や資料を寄贈していた。半世紀を超える研究や作品を収めた「ドナルド・キーン著作集」(全15巻)は今春、別巻を出して完結する予定だった。
NHKさんのニュースから。
ドナルド・キーンさん死去 96歳



ドナルド・キーンさんは、1922年にニューヨークで生まれ、アメリカ海軍の学校で日本語を学びました。
戦後、京都大学に留学したあとアメリカ・コロンビア大学の教授を務めるなどして、半世紀以上にわたって日本文学の研究を続けてきました。
平安時代から現代までの日本人が書いた日記について解説した「百代の過客」や「日本文学史」など、数々の著作を通じて独自の日本文学論を展開したほか、能や歌舞伎といった日本の古典芸能の評論にも活動の幅を広げ、日本文化について鋭い批評を加えました。
また、近松門左衛門や太宰治、三島由紀夫など、古典から現代の作家まで数々の作品を英語に翻訳し、日本文学を広く世界に紹介しました。
谷崎潤一郎や川端康成、三島由紀夫といった日本の文壇の重鎮とも親しく、ノーベル文学賞の選考を行うスウェーデン・アカデミーに対して日本文学についての助言を行ったことでも知られています。
こうした功績で日本の文学評論に関する多くの賞を受賞し、平成20年には文化勲章を受章しています。


90歳をすぎても活動を続け、平成28年に歌人、石川啄木の研究書を出版したほか、雑誌のインタビューや対談などにも応じていました。
キーンさんの代理人によりますと、体調が悪化したため去年秋から入退院を繰り返し、24日午前6時すぎ、心不全のために東京都内の病院で亡くなりました。
養子の誠己さん「幸せな一生だった」
ドナルド・キーンさんの養子のキーン誠己さんは「父は苦しむこともなく、穏やかに永遠の眠りにつきました。みずから選んだ母国で日本人として、日本人の家族を持ち、日本に感謝の気持ちをささげつつ、幸せに最後の時を迎えました。日本文学に生涯をささげ、日本人として日本の土となることが父の
長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」とコメントしています。

長年の夢でしたから、この上なく幸せな一生だったと確信しています」とコメントしています。


瀬戸内寂聴さん「ぼう然」
ドナルド・キーンさんが亡くなったことについて、同じ大正11年、1922年生まれで数々の対談を重ねてきた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんは「キーンさんとは心が通い合い、親類づきあいのような親しさが生まれていた。会えば何時間も話し込んでしまう仲になっていた。私もキーンさんも、年をとっても仕事をやめず、人にあきれられていたが、キーンさんはいくつになってもアメリカへ行き来するし、海外旅行も平気でされる。こんなことになってぼう然としている」というコメントを発表しました。
後日 お別れの会を予定
代理人によりますと、ドナルド・キーンさんの葬儀と告別式は親族のみで行い、後日、お別れの会が開かれるということです。
日本文学の流れを網羅的、体系的に研究されていたキーンさん。光太郎についても言及されていました。『朝日新聞』さんの記事にもある『日本文学の歴史』(中央公論社)の第17巻近代・現代篇8。明治・大正・昭和の詩についての巻です。光太郎の項は約40ページ。簡にして要、の感があります。


曰く、
いわゆる現代的で複雑な詩に困惑した読者は、心から発せられた感動的な作品として光太郎の詩を好んだ。高村光太郎はこれからも、このような詩の作者として人々の記憶に残るに違いない。
また、昨年、求龍堂さんから刊行された大野芳(かおる)氏著 『ロダンを魅了した幻の大女優マダム・ハナコ』に、キーンさんが登場なさいます。唯一、ロダンの彫刻モデルを務め、光太郎とも交流があった日本人女優・花子に関する考察です。明治43年(1910)に森鷗外が花子をモチーフにして書いた短編小説「花子」を英訳したキーンさんが、昭和34年(1959)、岐阜に住む花子の遺族の元を訪れたエピソードが紹介されています。この際、キーンさんは、光太郎から花子に宛てた書簡を見せてもらったとのこと。

ラフな服装で訪問し、気さくな、しかし、日本文学への熱意を存分に感じさせるキーンさんの真摯な人柄に、花子の遺族が感激されたそうです。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
【折々のことば・光太郎】
此の彫りかけの鯉が自分で納得できるやうに仕上がる時が来たら、私の彫刻も相当に進んだ事になるであらう。いつの事やら。
散文「某月某日」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳
新潟の実業家・松木喜之七が、光太郎に鯉の木彫を依頼、大枚
500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、何度作っても自分で納得が行きません。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。
500円をおいていきました。光太郎は早速制作にとりかかりますが、何度作っても自分で納得が行きません。鱗の処理が出来ない、というのです。鱗をリアルに彫ってしまうと俗な置物のようになるし、彫らずば鯉にならないし……というわけで、結局、完成しませんでした。光太郎、代わりにと「鯰」を進呈しています。現在、愛知小牧のメナード美術館さんに収蔵されている作品です。
確認されている、光太郎が木彫に取り組んでいるところを撮った唯一のスナップ、土門拳による昭和15年(1940)の写真に、「鯉」が写っています。


その後、松木は召集されて、軍服姿で光太郎の元を訪れ出征の挨拶。しかし、南方戦線で還らぬ人となってしまいました。
ところで、ドナルド・キーンさん、そもそも本格的に日本文学に興味を持った一つのきっかけは、語学将校としてハワイや沖縄で従軍し、日本兵の日記の翻訳や捕虜の通訳をしたことだそうで、不思議な縁を感じます。
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