昨日の『信濃毎日新聞』さんの記事から。 

善光寺仁王像 初の本格調査 東京芸大大学院などのチーム

013 善光寺(長野市)の仁王門に納められている仁王など4体について、東京芸大大学院の文化財保存学・保存修復彫刻研究室などの調査チームが現地調査を始めた。同寺によると、制作から今年100年となる仁王像の本格的な調査は初めてで、将来的に文化財指定を目指す第一歩。彫刻家高村光雲(1852~1934年)らが手掛けた4体は作品的価値が高いとされ、再評価する上で必要な基礎資料を7月ごろまでにまとめる。
  仁王門南側の左右に並ぶ仁王像は、向かって左側が口を開いた阿形(あぎょう)、右側が口を閉じた吽形(うんぎょう)でともに高さ約4・5メートル。制作は、光雲と弟子の米原雲海(1869~1925年)を中心に、松本市中町出身の彫刻家太田南海(1888~1959年)らも関わり、1919(大正8)年に完成。北側には、同時期に光雲らが手掛けた三宝荒神(さんぽうこうじん)像、三面大黒天像も安置されている。いずれもこれまで文化財指定はされていなかった。
  調査は30日までの4日間、同研究室の研究者や大学院生を中心に、光雲のひ孫の写真家高村達(とおる)さん(51)=東京=を含め11人が参加。像の周囲に足場を組み、像をコンピューター上で立体的に再現するための写真撮影や、内部構造を把握するためにエックス線撮影などをしている。
  仁王門は昨年再建から100年を迎え、さらに仁王像などの開眼法要が19年9月に営まれてからも100年となることから、善光寺は今秋までの1年間を仁王門と仁王像の「記念イヤー」と位置付けている。昨年9月には、仁王門に貼られていた参拝者の名前などが記された「千社札(せんじゃふだ)」を建物を守るために剥がすなど、再評価に向けた取り組みを進めており、今回の調査もその一環。
  調査チームに加わる田中修二・大分大教授(50)=近代日本彫刻史=は4体の像について「構造や制作過程を踏まえ、美術史や作家のキャリアの中でどう位置付けられるか考えたい」と意気込んでいる。


光雲作の木彫、代表作の「老猿」(明治26年=1893)は、かなり早く平成11年(1999)に重要文化財に指定されましたが、それ以外にはそういった指定は受けていないようです。皇室に納められているさまざまな作品なども同様です。100年を経ている作品については、そういった指定ももっと視野に入れていただきたいものですね。まずは地方自治体さんの指定文化財といったあたりから、という気がします。

ただ、光雲の作品は、決して少なくはない上に、善光寺さんのものもそうですが、光雲単独ではなく弟子の手が入っている場合が多く、なかなか難しいのかもしれません。今回の調査が、そういった方面の基準作りにおいて役立っていくことを願います。

明日も善光寺さん系のネタで。


【折々のことば・光太郎】

私は既成宗教のどの信者でもないが医し難い底ぬけの自然讃美者だ。自然の微塵にも心は躍る。万物の美は私を救ふ。強力なニヒルの深淵から私を引き上げたのは却て単純な自然への眼であつた。

散文「三陸廻り 二 牡鹿(をじか)半島に沿ひて」より
 昭和6年(1931) 光太郎49歳

そういうわけで、光太郎は仏像らしい仏像は作りませんでした。東京美術学校時代におそらく手本を与えられての習作として作った、羅漢像のレリーフが残っているくらいです。ただ、ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)や、生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」などは、観音像の施無畏印をモチーフとしてはいますが。

代わって光太郎を貫いたのは、文中にもある「自然讃美」の精神でした。動植物の木彫だけでなく、おそらく塑像での肖像彫刻などにも、その精神が生かされているように思われます。