新刊情報です。 

QQQ

2018/10/31 和合亮一著 思潮社 定価2,400円+税

わたしたちそのものがこの風景だ? もはや疑問そのものが? 牛の姿をしている? (「QQQ」)

「わたしは夜になると/寂しい場所にある大きな刑務所へと歩きます/道なりが続いていて車も人もいないのです」(「蛾になる」)。騒然とした無人の現在を超え、全身で立ち上がる絶対的な問い。「現代詩手帖」連載時に反響を呼んだ「QQQ」を収録、和合亮一が挑む未来のためのシュルレアリスム! 装幀=中島浩

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各地の地方紙に、配信記事として書評が出ています。 

『QQQ』和合亮一著 埋められた言葉を掘り起こす 

 福島市に住む詩人の和合亮一は、2011年の原発事故の直後からツイッターで発信し続けた『詩の礫』で広く知られる。新詩集『QQQ』は現代詩への原点回帰であり、新たな跳躍でもある。シュールレアリスムの難解さとユーモア、恐怖と混沌がひしめき合い、共存している。
 作品全体を覆うのは、生きることの不条理だ。原発事故後に拡散した放射性物質の存在が、意識から去ることがない福島での暮らし。その中で不条理が幾重にも重なり、居座っていることが分かる。
 タイトルの「QQQ」は、クエスチョンのQを三つ連ねた。表題詩は、全ての行の最後に「?」が付いている。高村光太郎の詩「牛」を下敷きに、被ばくした牛をモチーフに据えて書いた。
「やせた牛はのろのろ歩く?/やせた牛は土を踏みしめて歩く?/やせた牛は平凡な草のうえを歩く?/足を右から出してまた右から出してまた右から出す?/尋ねてみたいことがある?/草を食べるってどういうこと?」「わたしたちそのものがこの風景だ?/もはや疑問そのものが?/牛の姿をしている?」(「QQQ」)
 疑問形でしか語れない風景が、詩に刻まれている。
 私は今夏、久しぶりに福島を旅した。車で福島市を出発し、飯舘村、南相馬市、そして浪江町へ。除染廃棄物が入ったフレコンバッグの山を至る所で見る。帰還困難区域が広がる。被ばくした牛たちが静かに草を食む。
 だが和合は私のような旅人ではない。住人として、この風景と向き合わなければならない。その生活は、あまりにもシュールだ。
「町に戻ってきても 良いということになった/飲料のための水が 貯められている 山の上のダムの底に/震災直後からの放射性物質が 沈殿している/それは 水とは決して混ざり合わないので//安全です その説明が 繰り返しなされた/人々は 心配でたずねる いや/大規模な 除染の作業などをして/かき回したりしないほうが良いのである と 教えられる」(「十二本」)
 異常ともいえる日常への怒りがひたひた伝わってくる。なにしろ、家の庭には汚染土が埋まっているのだ。いったいこの状況をどう受け止めろというのか。
「わたしの家の庭には 今もまだ/土の中に土が埋められています/言葉の中に言葉が埋められています」(「風に鳴る」)
 人はどんな異常にも慣れる。慣れなければ、叫ぶしかないからだ。慣れて言葉を失い、やがて沈黙する。しかし詩人は、異常と日常の間で、叫びと沈黙の間で、不条理のただ中で、埋められた言葉を掘り起こす。分かりやすい言葉ではなくても。
「ところで黒板は宇宙の半分である/わたしたちは十万年の歴史に火を点けたばかり」(「自由登校」)
(思潮社 2400円+税)=田村文


平成23年(2011)の東日本大震災後、SNS等も活用しながら詩を発信し、福島の現状を訴え続けたりもしている和合氏。光太郎ファンでもあられ、光太郎詩「牛」(大正2年=1913)を下敷きにした「QQQ」を、今年の『現代詩手帖』6月号に発表(そちらは存じませんでした)、他の近作と共にまとめた詩集です。

大正2年(1913)、光太郎は大地を踏みしめてゆっくりと力強く歩む牛に自らの姿を仮託しましたが、「QQQ」で牛に仮託されているのは、いまだ復興の進まない福島の歩み……。

他にも原発問題をモチーフとした詩が複数収められており、はっとさせられます。

「いくつかの街がそのまま ある日/空き部屋のような状態になってしまった/いつまでも次の住人はやって来ない/締め切ったままの部屋」 (「空き部屋」)

「〈生活圏外〉は「除染しない」のに/〈生活圏内〉は「再稼働」するのですか」 (「圏外へ」)

「この間 久しぶりに家に戻ったら/たくさんのネズミが行ったり来たりをしていた/子ども部屋の ミッキーマウスの ぬいぐるみが/ぼろぼろに囓られていて 情けなくて」 (「家族」)

どこが「アンダーコントロール」なのかと、問いたいところです。


ところで、光太郎の「牛」、というと、来週、NHK Eテレさんの幼児教育番組「にほんごであそぼ」で取り上げられます。近くなりましたらまたご紹介します。

子供達にはポジティブな「牛」を味わってほしいものです。そして大人の皆さんには、ネガティブにならざるをえない『QQQ』を味わってほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩の言葉には冪がある。それ故わたしの持論としては詩の最善の鑑賞法は黙読にある。或は一行を読みかへし、或は数行を一度に読む。冪根がその間に展開する。書かれた言葉の並列だけしか読み得ない読者は最も浅い鑑賞者といはねばならない。しかし詩が言葉である以上、朗読によつて言葉の持つ威力が言葉自体の中から自律的に迸出して来て、発声による生きたニユウアンスが生れ、此処に又別の面が、朗読によるより外、味ふ事の出来ない面があらはれるといふ事も事実である。

散文「照井瀴三著「詩の朗読」序」より 昭和11年(1936) 光太郎54歳

「冪」は「べき」。高校の数学に出てくる「べき乗」の「べき」です。

光太郎、朗読することが最善の鑑賞法とは考えていませんが、朗読によっってしか表し得ないものもある、というスタンスですね。