今週末は、光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の立っている青森十和田湖に行って参ります。

平成26年(2014)にオープンした、湖畔休屋地区の十和田湖観光交流センターぷらっと内部の、光太郎に関するコーナーがリニューアルされ、そのオープンセレモニーを行うというので、お招きを頂いた次第です。

もの自体は今年の4月から展示されているのですが、生前の光太郎をご存じの青森市ご在住の彫刻家・田村進氏から昨年寄贈された光太郎胸像「冷暖自知 光太郎山居」、それから「乙女の像」制作の際に実際に使われた彫刻用の回転台。こちらは「乙女の像」で光太郎の助手を務めた青森野辺地出身の彫刻家・小坂圭二がもらい受け、さらに小坂の弟子に当たる彫刻家・北村洋文氏の手に渡り、そしてやはり昨年、十和田市に寄贈されたものです。

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とりあえず仮に置いておいたという感じだったのを、説明板等をきちんと制作したりして、正式にお披露目ということのようです。その他にも、日除けを兼ねたタペストリーを窓に提げ、そこに「乙女の像」関係の古写真などをプリントするという件でご相談を受けたりもしました。

日時は10月28日(日)、10:00から。「ぷらっと」のオープンの時がそうでしたが、議員さんとかに集まっていただいての式典なのでしょう。

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式典後、トークセッションということで、田村氏、北村氏共々、お前も何かしゃべれと言われておりまして、「乙女の像」関連で少しお話をさせていただこうと思っております。

さらにその後、「乙女の像」まで行って、記念撮影だそうです。


ところで、十和田湖といえば、先だって、下記書籍が発売されました。

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NHKさんで好評放映中の「ブラタモリ」の書籍化です。既に14巻目だそうで、この巻は「箱根 箱根関所 鹿児島 弘前 十和田湖・奥入瀬」。このうち「十和田湖・奥入瀬」は、昨年9月放映分の内容に準拠しています。オンエアでは「乙女の像」は約2秒間出演(笑)。

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書籍では十和田湖全体の見所紹介的なページに記述がありました。

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ただ、説明は某サイトからのコピペのようで、あちこちでこの文章を見かけますが、少し閉口しています。

まず、「最後の作品」ではなく「最後の大作」。「乙女の像」完成後に、小品ではありますが、昭和28年(1953)「乙女の像」除幕式の際、関係者に配られた、大町桂月肖像をあしらった記念メダルが作られ、これが完成したものとしては光太郎「最後の作品」ですし、昭和29年(1954)から手がけ、未完成に終わりましたが「倉田雲平胸像」も、ある意味「最後の作品」です。

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それから「完成までに1年余りを費やした」。ひな形である小型試作の制作開始が昭和27年(1952)11月17日、七尺の本体原型が完成したのが翌年5月31日。1年かかっていません。さらにいうなら、このペースは光太郎としては異常に速いもので、その裏には自らの健康状態への不安があったと思われます。そこで、逆に「半年ほどで完成させてしまった」と書くべきですね。

その他、よく見かける誤りが、「乙女の像」台座の石が「福島産」であるとの記述。これは、地元の十和田湖奥入瀬観光ボランティアの会の皆さんの地道な調査等により、「岩手産」であることが判明しています。従来、この像を含む周辺一帯の設計をした建築家・谷口吉郎が「福島産の折壁石」とあちこちに書き記してしまったため、福島産と思われてきましたが、折壁石というブランド名は岩手県東磐井郡室根村(現・一関市)の折壁地区で採れたことに由来します。

さて、その点はともかく、『ブラタモリ⑭ 箱根 箱根関所 鹿児島 弘前 十和田湖・奥入瀬』二重カルデラとしての十和田湖や、奥入瀬渓流の特異な成り立ちなど、非常に興味深い内容です。ぜひお買い求め下さい。


【折々のことば・光太郎】

氏の詩は実に美しい。その美は実相の葉末に凝つた露滴のやうに自然に形成された美であつて、手先ばかりの作為が無く、偏局せず、破片でない。いつもまともで、精神の高さから生れてゐる。

散文「宮崎丈二詩集「白猫眠る」を読む」より
 
昭和7年(1932) 光太郎50歳

宮崎丈二は明治30年(1897)、銚子生まれの詩人です。大正期からさまざまな詩誌の刊行に関わり、それらに光太郎作品を積極的に載せていました。また、やはり光太郎と縁の深い岸田劉生とも交流があり、岸田の興した草土社にも参加するなど、画業でも優れた作品を遺しています。

やはり他者の詩の評ではありますが、詩とは斯くあるべき、という光太郎詩論が垣間見えます。