光太郎第二の故郷ともいうべき岩手県花巻市。そちらの広報紙『広報はなまき』さんの今月15日号の、「花巻歴史探訪 〔郷土ゆかりの文化財編〕」という連載で、光太郎の遺品が紹介されています。

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題して「光太郎の鉄兜(てつかぶと)と鳶口(とびぐち) 昭和20年花巻空襲被災当時の所持品」。その通りで、昭和20年(1945)8月10日、東京を焼け出されて疎開していた花巻の宮沢賢治の実家で再び空襲に遭った際に身に着けていたものです。鳶口の柄には、「高村光太郎」と記名してあります。

お茶の水女子大で教鞭を執っていた椛澤ふみ子(佳乃子)に宛てた、8月24日付の長い書簡の中に、「警報と同時に小生は例の通り、鉄兜をかぶり、飯盒、鉈を腰にぶらさげ、バケツと鳶口とを手に持つてゐたので……」という一節があります。

おそらく花巻高村光太郎記念館さんの所蔵なのでしょうが、以前に頂いた所蔵品のリストには入っていなかったように記憶しております。当方の記憶違いかも知れませんが。或いは、最近、新たに遺品類が出てきたやに聞いておりますので、その中のものかも知れません。月末にはまた行って参りますので、確かめてみます。


それから、やはり花巻高村光太郎記念館さんの協力で為されている『花巻まち散歩マガジン Machicoco(マチココ)』さん第9号(8/10発行)の連載、「光太郎レシピ」。

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今号は、「ボストンビーンズとアンチョビサンド」。それぞれ花巻郊外太田村の山小屋での日記に記述があるものです。

ボストンビーンズは、インゲンマメなどをメープロシロップを使った甘辛いソースで調理した料理。なんと、明治39年(1906)から翌年にかけて留学で滞在していたニューヨークでこれを食べていたという記録もあります。

食事はスヰトン鍋の自炊ときめてゐたが、外へ出るとデリカテツセンに安い出来合ひの食料が何でもあるので其を五仙(セント)十仙と買つて来て使つた。昼食は工場の近くの店で十仙均一のボストンビーンズや、フオースや、ホツトケークなどを一皿食ふ事にしてゐた。
「ヘルプの生活」昭和4年(1929)

「工場」は、おそらく「こうじょう」ではなく「こうば」と読み、光太郎が助手を務めていた彫刻家、ガットソン・ボーグラムのアトリエです。

ちなみに、来月1日に、花巻高村光太郎記念館さん主催の市民講座「光太郎の食卓と実りの秋を楽しむ」があり、講師を仰せつかっております。とりあえずじょうきのように、光太郎の「食」に注目して生涯を概観しようと思っております。詳細はまた後ほど。


【折々のことば・光太郎】

小生は好んで古今の俳句をよみ、且ついろいろに噛み味つて居ります。此の世界に稀な短詩型の持つ一種特別な詩的表現は、小生自身の詩作に多くの要素を与へてくれます。

散文「中村草田男雅丈」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

俳人・中村草田男の主宰する雑誌『万緑』創刊号に載った、おそらく中村宛の書簡そのままから。のち、中村の句集の序文としても使われました。

光太郎自身、少年期から俳句の実作に親しみ、それは戦後まで断続的に続きました。また、確かに詩の中にも俳句的発想が見られるような気もします。