一昨日から昨日にかけ、信州に行き、安曇野の碌山美術館さん、諏訪のサンリツ服部美術館さんと、2箇所廻っておりました。

一昨日の土曜、夕食を採ったあと仮眠し、深夜(日付が変わる前に)、台風12号をやり過ごしてから千葉の自宅兼事務所を出発。しかし、中央道八王子あたりで台風のシッポに追いついてしまいました。その後は雨の中を進み、塩尻の健康センターで入浴、仮眠、起きてまた入浴。昨日朝一番で、碌山美術館さんに向かいました。朝には台風も行ってしまっていて、雲は多めでしたが時折雨がぱらつく程度でした。

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北アルプスの山々。

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碌山美術館さん。

21日(土)から、夏期企画展「美に生きる―萩原守衛の親友たち―」が始まっています。

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お世話になっている濱田学芸員、それから今年度新任の高野館長にご挨拶(ほぼ毎年お邪魔している4月の碌山忌を今年は欠礼しましたので)。その後、展示を拝見しました。

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左の碌山館は、荻原守衛の彫刻の展示棟で、こちらの展示内容は不変です。手前にはおそらく女郎花(オミナエシ)。いい感じでした。企画展は第一展示棟、第二展示棟を使っていました。もう一棟、杜江館という建物もあり、一昨年の「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」ではそちらも使っていましたが、今回は2棟のみでした。「―萩原守衛の親友たち―」というサブタイトルで、第一展示棟が光太郎と柳敬助、第二展示棟に戸張孤雁と斎藤与里というラインナップでした。

第一展示棟は、もともと彼等の作品を常設展示している棟ですが、普段は収蔵作品のすべてが出ているわけではありません。今回は4人の作家の収蔵作品のおそらく全て、プラス他からの借り受け品も展示されていました。

光太郎彫刻は全てブロンズで、同館所蔵のもの。年代順に浅草の玉乗り芸人の幼い兄妹をモデルにした彫刻の部分的な残存「薄命児男児頭部」(明治38年=1905)、光太郎初の注文による肖像彫刻「園田孝吉像」(大正4年=1915)、事情があってかくまった横浜の少女をモデルとした「裸婦坐像」(大正6年=1917)、光太郎ブロンズの代表作「手」(大正7年=1918)、その力感がすばらしい「腕」(同)、零落した元旗本の花売り老人がモデルの「老人の首」(大正14年=1925)、同型のものが東京芸術大学の庭に立つ「高村光雲一周忌記念胸像」(昭和10年=1935)、そして生涯最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の小型詩作(一体のみ・昭和27年=1952)、中型試作(一対・昭和28年=1953)、そして未完の絶作「倉田雲平胸像」(昭和29年=1954)。碌山美術館さんでは、買い足し買い足しで、10点もの光太郎ブロンズを購入して下さっています。花巻高村光太郎記念館さんを除けば、これだけ集まっているのはここだけです。

他の三人の作品も、改めて見るといいもので、特に斎藤与里の絵は、郷里・埼玉県加須市教育委員会からの借り受け品など、非常に華やかでした。

それから、同館で今年の4月に刊行された新刊書籍を頂いてしまいました。題して『彫刻家 荻原守衛―芸術と生涯―』。300ページ近くある大判の厚冊で、守衛の彫刻と絵画のカタログ・レゾンネ的なものプラス、かなり詳細な評伝も付されています。さらに光太郎を初めとする周辺人物の紹介なども。これで定価3,000円は掛け値無しにお買い得です。

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ぜひ足をお運びの上、お買い求め下さい。企画展は9月2日(日)までの会期です。


【折々のことば・光太郎】

真の詩人は、いかなる素材、いかなる思想をも懼れない。詩が生命そのものの如き不可見であり又遍在である事を知るからである。

散文「詩そのもの」より 昭和5年(1930) 光太郎48歳

光太郎が使う「詩人」の語は、単に詩を作る者、というだけでなく、「芸術家」そのものを指すこともあるように思われます。たとえ言葉で詩を作らなくても、守衛のように優れた彫刻を作る者は「詩人」だ、みたいな。あらゆる芸術の根幹には「詩魂」が不可欠であるとの考えがその背後にあります。といって、自らはまだまだ、という謙虚さも持ちあわせているのが光太郎でした。