俳優の加藤剛さんの訃報が出ました。 

加藤剛さん死去 「砂の器」「大岡越前」 80歳

 映画「砂の器」やテレビ時代劇「大岡越前」で知られた俳優の加藤剛(かとう・ごう、本名・剛=たけし)さんが6月18日、胆嚢(たんのう)がんで死去したことが9日わかった。80歳だった。所属する俳優座が発表した。葬儀は家族で営んだ。お別れの会を9月22日、東京都港区六本木4の9の2の俳優座劇場で予定している。
 1961年、早稲田大学文学部(演劇)卒業。俳優座の養成所を経て64年、入団。デビューは62年のテレビドラマ「人間の条件」だった。代表作は70年から99年まで続いた「大岡越前」(TBS)。犯罪に厳しく、人間に温かい名奉行ぶりで人気を博した。NHK大河ドラマでは「風と雲と虹と」(76年)、「獅子の時代」(80年)で2度主演した。
 松本清張原作の映画「砂の器」(74年)では、冷徹さの裏に苦悩を隠し持つ天才音楽家を演じ、映画をヒットに導いた。平和問題への関心が高く、木下恵介監督の「この子を残して」(83年)では、放射線医学の研究者で自らも長崎で原爆に被爆した永井隆博士を誠実に力演した。
 俳優座を代表する俳優の一人として舞台に立ち続けた。80年代から上演された「わが愛」3部作に主演。95年には強制収容所のガス室に消えたポーランド人医師を描いた「コルチャック先生」に、99年には「伊能忠敬物語」に主演した。
 紀伊国屋演劇賞(79、92年)、芸術選奨文部大臣賞(92年)など受賞多数。08年に旭日小綬章を受けた。
 映画「忍ぶ川」などで共演した栗原小巻さんは「悲報に接し、めまいがいたしました。彼はとても知性的で、懸命で、高潔な人でした。人柄も画面や舞台の中の彼そのままでした」と話した。
 俳優座養成所でともに学んだ長山藍子さんは「温かいユーモアもありました。論理だけではなく情の厚さも加わる、あの『大岡裁き』。剛ちゃんだからこそ演じることができたのだと思います」と話した。

『朝日新聞』2018/07/10


加藤さんによる「智恵子抄」の朗読が、2種類、ソフト化されています。

まずは昭和42年(1967)、日本ビクターさんのフィリップスレーベルからリリースされたLPレコード。

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28編の詩が収められています。まだ20代の加藤さんの若々しい声が、印象的です。

ジャケットの内側に、加藤さんの言葉、「僕もまた大風のごとく」。

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 「智恵子抄」の朗読者として僕を、というお話のあったとき、正直のところひどく迷いを感じた。そして考える日数をいただいた。清冽な愛のかたちを思うとき、恐らく日本人の誰もが脳裏に浮かべるだろう、それは美しい詩集である。編まれて以来どれほどの数の人の胸の中に暖かくしみとおり唇の上で愛されてきた作品かを考えると、若い僕などの力の及ぶ範囲は自ずと知れていよう。
 ましてやこの作品の高さに相応しい、磨かれた朗読術――方法論を身につけられた諸先輩が数多くいられるではないか、と僕は心を決しかねた。
 そんな夜半、濃い珈琲を道づれに作品集のページを繰りながら、僕は高村光太郎先生のこんな言葉にふと捉えられた。
 「ともかく私は今いわゆる刀刃上をゆく者の境地にいて、自分だけの詩を体当り的に書いていますが、その方式については全く暗中模索という外ありません。いつになったらはっきりした所謂詩学が持てるか、そしてそれを原則的な意味で人に語り得るか、正直のところ分りません」
 この「自分だけのための体当り的詩」が僕にもうたえぬものか。「智恵子抄」の世界が、生活者としての詩人の心の内を小止みもなく衝きあげるみずみずしい言葉にこんなにもあふれている以上、「所謂詩学」などは無縁なのかも知れない。「方式」などは二の次かもしれない。生命によせる素直な讃美や感動、人を愛する激しく豊かな心のうねり、それらに唯ぴったりと己を重ね合せようとするところに、意外にも僕の出発点はありはすまいか。それが「朗読」と呼べるかどうかはわからない。事実今の僕にとって「方式」は明確ではないのだ。
 僕は多分「詩人高村光太郎」の役を与えられた俳優の発想で「智恵子抄」に立ち向かおうとしているのだと思う。なんとも盲蛇式の図々しい発想ではあるけれども。
 その夜半、僕は冷えた珈琲を啜って再度、智恵子のイメージを追慕した。
 「わがこころはいま大風の如く君にむかへり」。学生時代から何となく暗誦んじていた「郊外の人に」の最初の一節が、不思議に新しい響きを持って心を占めた。僕もまた、今はただひたすら大風のごとく、この仕事に挑むほかはない。

何とも誠実なお人柄が偲ばれる文章です。

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画像はレコーディング風景。左はレコードの監修者で、映画監督の故・若杉光夫氏です。

ちなみにこのレコードは、昭和51年(1976)、フォンタナ・レコードさんから覆刻されました。

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2回目は、昭和62年(1987)。新潮社さんでシリーズ化していた「新潮カセットブック」の一つとしてでした。タイトルは「『智恵子抄』より」。

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詩が29篇、それから「智恵子抄」に収められた「巻末の短歌」6首。

こちらはジャケットに加藤さんの言葉はありませんが、翌年発行の雑誌『彷書月刊』(ちなみに題字揮毫は当会顧問・北川太一先生です)第4巻第10号、「特集 高村智恵子」に掲載された、加藤さんの「無辺際を飛ぶ天の金属」という文章で、前述のレコード、そしてこのカセットブックに触れられています。

 「高村智恵子様。不躾ないい方を許002して下さい。もし、詩
人・彫刻家高村光太郎の役が僕に与えられたのだったら――、そんな発想がある日きらりと全身をつらぬきました。ここからすべての風が起こり、すべてが燃えひろがりました。僕の『智恵子抄』はこのときにはじまったのです。」(エッセイ集『海と薔薇と猫と』)
 と、私はそのとき、正直に記している。私の朗読で「智恵子抄」がレコード化された二十年前であった。この類まれな詩篇の美しさ、高さに、はたして己れが相応しいか、と迷い続けた録音前数ヵ月。けれど、「もう人間であることをやめ」て、「見えないものを見、聞えないものを聞」く、「元素智恵子」は、いつのまにか、あたかも明晰な自然のように無理なく「光太郎」としての私のかたわらにいたのだった。
 「智恵子様。何十年かのち、僕が老優になったときもう一度、この作品を朗読する光栄をお与え下さいますよう」、と私が心の中で結んだ手紙に、「智恵子」からの「返事」が届いたのは二十年後で、この光栄な機会は、あやうく老優になる前に再び訪れた。今回はカセットブックである。「智恵子」が私の「光太郎」を許容してくれたのか、と私は嬉しい。「智恵子」は私にとっても永遠に「無辺際を飛ぶ天の金属」である。


こちらのカセットブックは、同じ新潮社さんからCD化され、現在も販売中です。


そして、平成23年(2011)には、『朝日新聞』さんの福島版で連載された「「ほんとの空」を探して」の第二回にご登場。やはり「智恵子抄」朗読について語られています。

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末尾近くの「国家ではなく、一人ひとりの人間が権威を持つ。光太郎先生と智恵子さんの自由への思いは、我々に力を与えてくれる」というお言葉、その通りですね。


謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

土門拳は不気味である。土門拳のレンズは人や物を底まであばく。レンズの非情性と、土門拳そのもののの激情性とが、実によく同盟して被写体を襲撃する。この無機性の眼と有機性の眼との結合の強さに何だか異常なものを感ずる。

散文「土門拳写真集「風貌」推薦文」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳

光太郎もそのレンズの餌食となった、写真家・土門拳の写真集に寄せた一文から。

朗読レコードにしてもそうですが、まだデジタル技術が開発されていなかったとはいえ、「真」を「写」す技術、それが芸術へと昇華していくことに、光太郎も新時代の到来を感じていたようです。