このところ、新刊書籍を頂く機会が多く、助かっています。昨日は歌人の松平盟子様から下記書籍が届きました。ありがたし。
真珠時間 短歌とエッセイのマリアージュ
2018年7月24日 松平盟子著 本阿弥書店 定価2,600円+税

松平様が編集発行なさっている短歌誌『プチ★モンド』に連載されたエッセイ「真珠時間」、「琥珀時間」を根幹に、『読売新聞』さん連載のコラム「短歌あれこれ」、そして書き下ろしエッセイ「光太郎とラリックをつなぐ「蝉」」が掲載されています。
「ラリック」はルネ・ラリック。フランスのガラス工芸作家です。現代でもラリックブランドのガラス工芸品は日本でも人気ですね。先行するガレやドームとともに、その分野の三大巨匠と称されることもあります。ちなみに上記『真珠時間』カバーの装幀にもラリックの作品があしらわれています。
そのラリックと光太郎をつなぐ仮説、的なエッセイですが、かなり正解である確率の高い説です。
光太郎の談話筆記に「パリの祭」という作品があります。明治42年(1909)、欧米留学からの帰朝後に『早稲田文学』に発表されたものです。前年、ロンドンからパリに渡り、およそ1年間を過ごしたパリのさまざまな風物が語られています。
その中に、ラリックに関する記述も。ただ、ラリックという人物についてではなく、工芸品店としてのラリックについてです。
冬になると美術工芸品の新物が盛に売り出されます。工芸品でパリに名高い店が二軒ある。一つはラリツクと言つてプラース ド バンドーンにある店。二つと同じ品を作らないのを誇りとしてチヤンとラリツクの銘を打つて置きます。も一つをガイヤールと言ふ。この二軒は競争で新物を作り出し売出すのです。
「プラース ド バンドーン」はパリ1区のヴァンドーム広場。カルティエやティファニーも店を構えています。「ガイヤール」はリュシアン・ガイヤール。やはりガラス工芸作家ですが、日本ではあまり知られていないようです。
光太郎がパリに滞在していた明治41年(1908)、ラリックは、それまでジュエリーデザインを主軸にしていたのを、それ以前から手がけていたガラス工芸に軸足を移したとのこと。香水商フランソワ・コティから香水瓶のデザインを注文されたことがきっかけだそうです。
その頃、パリではジャポニスムはまだ大きな流れとして健在でした。ガラス工芸の分野でも、ガレやドームが日本風の意匠を取り入れたことは有名ですし、ラリックや先述のガイヤールも例外ではありませんでした。
そして、ラリックには蝉をモチーフにし
た作品があります。右の画像は『真珠時間』から採らせていただきました。

光太郎がパリでそれを目にし、のちに木彫「蝉」を制作する一つの契機となったのではないか、というのが松平様の仮説です。
4月頃でしたか、松平様から「こういう文章を発表するのでチェックして欲しい」ということで、今回の草稿が送られて来て一読。「なるほど」という感想でした。確証はありませんが、否定する材料もなく、あり得る話だな、というところです、とお答えしておきました。
ただ、「論文」として発表できる質の内容ではなく、そのあたりは松平様もよくおわかりのようで、「エッセイ」としての発表です。しかし、光太郎彫刻を考える上で、一石を投じる提言であることは間違いありますまい、と存じます。
他のエッセイの部分を読み(まだ熟読は致しておりませんで、斜め読みですが)、こうした発想にいたられた理由が少し解ったような気がしました。すなわち、パリに滞在されたことがおありだということ。やはり彼の地での見聞がないとたどり着かない発想だと思いました。
版元サイトから注文可能です。是非お買い求め下さい。
【折々のことば・光太郎】
牛酪(バタ)を臭いと言ふ人には本当の牛酪を嘗めさせるに若くはない。
散文「熊野と公衆」より 明治45年(1912) 光太郎30歳
「熊野」は「ゆや」と読み、三浦環主演のオペラの題名です。衣裳も背景もすべて歌舞伎風、歌舞伎の公演の間に上演され、うまくいけば日本独特の歌劇の誕生、ということになったのですが、結果は「公衆」に、さんざんな酷評をされました。
光太郎は、単に管弦楽や合唱に慣れていない「公衆」が浅はかな批判を展開しているとし、「本物」に触れることの重要性への提言として、上記の一節を記しています。