まずは17日、日曜日の『神戸新聞』さん。一面コラムの「正平調」。

正平調 2018/06/17

作家黒井千次さんの父は90歳で亡くなった。四十九日の法要を済ませた後、残された本を整理しようと入った部屋で1本の黒い万年筆を目にする。握りが太く、吸入式の外国製である◆何げなくキャップを取り、ペン先を走らせて驚く。すらすらと書けた。生前に入れたインクが残っていたのだ。「そこにだけ、まだ父は生きている」。そんな不思議な感慨を覚えたと、エッセーで書いている◆そこにだけ、まだ父は生きている。あるとき、ある瞬間、そんな思いにかられることは間々ある。昨年、牧場を経営する弓削忠生(ただお)さんに書いていただいた本紙「わが心の自叙伝」でも遺品のくだりが印象に残った◆牧場をどう続けるか、決断に迫られていたときのことだ。73歳で生涯を閉じた父の遺品に、彫刻家で詩人、高村光太郎の詩を見つけた。高村は開拓の精神をたたえる詩を残したが、その一節を書き写していた◆「読んでいると、父の思いが見え隠れしているように思えた」。で、意を決したそうだ。難しい課題はあるが、父が挑んできたことに取り組もう、牧場を残し続けようと◆きょうは父の日だ。感謝の贈り物もいいが、もし他界しているのなら、引き出しの奥に眠る遺品を手に取るのもいい。どこかで、まだ父は生きている。

光太郎がメインではありませんが、『神戸新聞』さんの「正平調」、よく光太郎を取り上げて下さっています。ありがたいかぎりです。


続いて、同じく17日の『毎日新聞』さん、読書面。 

今週の本棚・新刊 『高村光太郎論』=中村稔・著(青土社・3024円)

 高村光太郎の詩「寂蓼(せきりょう)」が、漱石「行人」中に描かれた近代人の内面「かうしては居られない、何かしなければならない、併(しか)し何をしてよいか分からない」に酷似しているという指摘から始め、光太郎の西欧体験を辿(たど)り、智恵子との出会いを探る。西欧との齟齬(そご)、日本との齟齬に悩む新帰朝者・光太郎の焦燥の背後には、一貫して「父光雲の脛(すね)をかじるつもりだったとしか思えない」自己中心的な甘えがあった。
 甘えは智恵子との間にもあった。「智恵子は東京に空が無いといふ」に始まる「あどけない話」を、「夫婦としての会話のない」悲劇的作品とする指摘など鋭い。光太郎の性欲は強く、智恵子は淡泊。それが智恵子発狂の遠因の一つだったとする。その孤独が詩篇「猛獣篇」を書かせ、智恵子の死後には、太平洋戦争下、厖大な戦争詩を書かせた。敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。これは通念を覆す指摘だ。
 著者は詩人、満九十一歳。『中原中也私論』『萩原朔太郎論』『石川啄木論』などに続く力作評論。頭脳の明晰と強靱(きょうじん)に驚嘆する。


中村稔氏著『高村光太郎論』の書評です。最後にあるとおり、満九十一歳の氏による書き下ろしの労作。まさにそのバイタリティーには驚かされます。「敗戦後、光太郎は岩手山村に「自己流謫」した。だが、「彼がいかなる責任をも感じていなかったことは間違いない」とする。」という部分には首肯できませんが……。


最後に、訃報を一つ。昨日の『朝日新聞』さんの朝刊を開いて目に入り、あらら……という感じでした。 

小峰紀雄さん死去

 小峰紀雄さん(こみね・のりお=小峰書店社長、元日本書籍出版協会理事長)10日、肝不全で死去、79歳。葬儀は近親者で行った。後日、お別れの会を開く予定。
 児童書専門の同社で、原爆の惨状を伝える絵本「ひろしまのピカ」(丸木俊著)などの編集、出版を手がけた。

小峰書店さんからは、教育評論家の遠藤豊吉氏の編集による「若い人に贈る珠玉の詩集」、『日本の詩』全10巻が刊行されています。おそらく日本全国津々浦々ほとんどの小中学校さんの図書室に完備されているのではないでしょうか。全10巻中の「わたし」、「あい」、「しぜん」に、光太郎の詩が掲載されています。

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当方、うっかり気づきませんでしたが、一昨年には新版が刊行されたそうです。

そして、記事にもあるとおり、小峰書店さんと言えば、丸木位里・俊子夫妻の「ひろしまのピカ」。こういう良質な児童書を世に送り出して下さり、ありがとうございました、そして、お疲れさまでした、という感じです。

謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

あの高い哄笑とあの三題噺ももう聞かれないか。あの玄人はだしの落語もあのしんみりした鋭い批評も聞かれないか。あのうまさうな酒の飲みぶりも見られないか。
散文「岸田劉生の死」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

明治末には光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で個展を開き、大正初めのヒユウザン会(のちフユウザン会)、生活社、大調和展などで、光太郎と共に洋画の革新運動に携わった鬼才・岸田劉生。光太郎より8歳年下で、数え39歳の若さでの急逝でした。8歳も年長ながら、光太郎は岸田を「無條件に天才であつた」とし、その死を悼みました。