先ほど、1泊2日の行程を終えて岩手花巻より帰って参りました。本日、彼の地の光太郎が戦後7年間の蟄居生活を送った山小屋(高村山荘)敷地にて、第61回高村祭――昭和20年(1945)の5月15日、東京駒込林町のアトリエを空襲で失った光太郎が宮沢賢治実家の誘いで花巻に疎開するため、上野駅を発った日を記念しての――が行われ、そちらに参加して参りました。

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昨日、千葉の自宅兼事務所を出まして、東北新幹線新花巻駅に降り立ち、レンタカーを借りて高村山荘脇の花巻高村光太郎記念館さんに。今日の高村祭の打ち合わせを致しました。その後、ほぼ定宿と化している大澤温泉菊水館さんに宿泊しました。今回、デジカメをかねて使用しているスマホを自宅兼事務所に忘れて行き、昨日分についての画像がありません。新緑に包まれ、カジカガエルの声響く大澤温泉さんの画像を載せたかったのですが……。

一夜明けて、今日。午前10時から高村祭でした。

以下掲載の画像は、花巻光太郎記念館さんの方からメールで送っていただきました。ありがたや。

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まず、山荘近くで光太郎がよく訪れ、交流が深かった山口小学校が統合された太田小学校の児童さんによる光太郎詩碑・遺影への献花と、花巻東高(かの菊池雄星・大谷翔平などを輩出した高校さんですね)茶道部の生徒さんによる献茶。ちなみに詩碑の地下には当会顧問・北川太一先生が寄贈された、光太郎が亡くなった時の遺髯が埋められています。

西南中学校――こちらは光太郎が「心はいつでも新しく 毎日何かしらを発見する」という言葉を贈った旧太田中学校が統合された先です――の生徒さんの先導で、詩碑に刻まれた光太郎詩「雪白く積めり」(昭和20年=1945)を、参会者全員で朗読。

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佐藤進花巻高村光太郎記念会長、上田東一花巻市長のごあいさつ。

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太田小学校2年生の児童さんたちの器楽演奏、旧山口小学校校歌斉唱、詩「案内」(昭和25年=1950)の群読。かつて光太郎が旧山口小学校に楽器一式を寄贈したことにちなんで、器楽演奏が綿々と続けられています。

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西南中学校1年生生徒さんたちによる「西南中学校精神歌」斉唱、詩「山林」(昭和22年=1947)からの群読。

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花巻北高校と花巻高等看護専門学校の代表生徒さんによる光太郎詩朗読。

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看護学校の皆さんは、光太郎詩にメロディーを付けた「最低にして最高の道」、「リンゴばたけに」、それから佐藤進花巻高村光太郎記念会長作詞の「花巻の四季」の合唱も披露して下さいました。

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この後、メインイベントともいうべき、座談会「思い出の光太郎先生」。この地で暮らしていた頃の光太郎をご存じの方4名に、当方がインタビューしたり、話を振ったりしつつ、光太郎との思い出を語っていただきました。

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昭和6年(1931)生まれの高橋愛子さん。光太郎が暮らしていた当時の村長さんの娘さんで、光太郎詩のモデルにもなった方です。昭和24年(1949)、山口小学校の学芸会に、サンタに扮した光太郎がサプライズで登場した際の、サンタの衣裳を、お母様と愛子さんが光太郎の指示で縫ったとのこと。赤い布は襦袢、白い髯は羊の毛だったそうです。

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藤原秀盛さん。昭和2年(1927)生まれ、御年92歳。戦後に入植者が拓いた開拓地――元々の山口集落の西側――にお住まいで、地域に伝わる「かせ踊り」の名手、実演もご披露下さいました。戦後すぐ、仲間と踊りの練習をしていたところ、その歌舞音曲を聞きつけた光太郎がふらりと現れ、その踊りのための面――十二支をかたどった――を彫る約束をしてくれたのに、それが果たされなくて残念、というお話でした。また、昭和24年(1949)、光太郎の山小屋に電線を引く工事の手伝いもされたとのこと。当方、藤原さんを除くお三方のお話は何だかんだで以前にも伺っていましたが、藤原さんのお話は初めてでした。

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光太郎が山口集落にいた頃の山口小学校児童だった、高橋征一さんと浅沼隆さん。学芸会の思い出や、山小屋での光太郎の様子、山小屋裏手の智恵子展望台から、福島の方に向かって「チエコー」と叫んでいた光太郎などのお話を頂きました。

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前列右から二人目が高橋征一さん、後ろの窓から顔を出しているのが浅沼隆さんです。

昨年までは、講演という形で行っていたのですが、今年初めてこのような座談会の形式をとり、初の試みだったもので、どうなることかと不安もありましたが、終わってみれば好評でしたので、胸をなで下ろしております。

昼食休憩をはさんで、午後の部は演芸会的に、地元の皆さんのステージ。トップバッターは、これもおそらく今年初めてではないかと思うのですが、花巻農業高校鹿踊部の皆さんによる春日流鹿踊の演舞。迫力満点の勇壮なものでした。

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その後、太田神楽。笛は花巻高村光太郎記念会事務高橋事務局長。先月、当会主催の連翹忌でも笛の演奏を
していただきました。

ここまで聴いたところで、退散。もう少しゆっくりしたかったのですが、家の事情もありまして……。

今後とも、この地での光太郎を偲ぶこの高村祭、綿々と受け継がれていって欲しいものです。今日の高村祭にしても、泉下の光太郎もきっと喜んでいることでしょうし。


【折々のことば・光太郎】

日本は国を挙げて生活即芸術の方向に進んで、人類最善の理想国をやがて樹立せねばならないが、その基本となるべきは自然を常住の相手とする農そのものである。

散文「第四次元の願望」より 昭和21年(1946) 光太郎64歳

花巻郊外太田村の山小屋に移り住み、宮沢賢治の精神に共鳴し、自らも農に取り組み始めた昭和21年(1946)春の発言です。結局、穀物類は配給や村人の援助に頼らざるを得ませんでしたが、野菜類はほぼ自給に成功しました。そうした生活が、光太郎の人間としての幅をまた大きくしたように思われます。