4月29日(日)、千葉銚子で「仏と鬼と銚子の風景 土屋金司 版画と明かり展」及び、「銚子浪漫ぷろじぇくとpresents語り 犬吠の太郎」拝見した後、一旦自宅兼事務所に戻り、今度は北を目指しました。JRさんの在来線、東北新幹線を乗り継いで、午後8時30分過ぎ、岩手の盛岡に到着。この日は駅前のビジネスホテルで1泊し、翌朝、レンタカーを秋田は小坂町に向けました。

目指すは小坂町立総合博物館郷土館さん。3月から、「平成29年度新収蔵資料展」が始まっており、光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏(小坂町出身)の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈され、その一部が展示されています。

展示が始まる前の2月にも現地に赴き、寄贈されたもののうち、約70通の光太郎から澤田宛の書簡類を拝見して参りました。既に筑摩書房さんの『高村光太郎全集』に収録されているものと、そうでないものが半々。そうでない方はすべて筆写させて頂きました。そして展示が始まり、もう少し早く行くつもりでしたが、この時期となった次第です。

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入館は無料。ありがたいというか、欲がないというか(笑)。

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会場全景はこんな感じで。

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会場入り口の掲示。当方の名も記していただいており、恐縮しました。

問題の書簡類。『高村光太郎全集』未収録のもののみ34通がずらっと並べられていました。壮観でした。学芸員氏が頑張って、一通一通、活字に翻刻、キャプション的に並べてあり、光太郎筆跡に慣れていない方でもどんな内容か解るようになっています。

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報道された際に目玉的に取り上げられた、昭和25年(1950)、龍星閣から出版された詩文集『智恵子抄その後』に関する葉書。

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それから、2月にお邪魔した際には時間もなく拝見できなかった、光太郎の署名本の数々。

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ほれぼれするような筆跡で、丁寧に書かれています。ネットオークション等で、時折、光太郎署名本なる偽物が出品されていますが、こういう本物を見続けていれば、偽物はいかにもみすぼらしく、下劣な品性の愚物が人をだまくらかそうと書いているのがありありと解ります。

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こちらは地元の子供さん達の作品。光太郎のブロンズ代表作「手」(大正7年=1918)にちなむものです。光太郎の母校、荒川区立第一日暮里小学校さんでも同じような取り組みをなさっていました

その他、龍星閣関連で、棟方志功、川上澄生、恩地孝四郎、富本憲吉関連の資料、別ルートの寄贈資料で、画家の福田豊四郎の作品などの小坂町関連資料なども展示されています。

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会期は今月20日まで。ぜひ足003をお運びください。

その後、レンタカーを更に北に向け、十和田湖を目指しました。途中の「道の駅 こさか七滝」には、その名の通り、七滝という大きな滝が。光太郎から澤田に送られた書簡類のうち、澤田が小坂の実家に引きこんでいた時期のものも何通かあり、その住所が「秋田県毛馬内局区内七瀧村大地」となっています。この滝にちなむ地名なのでしょう。

もう少し行くと、道ばたには残雪。運転にはまったく影響ありませんでしたが、さすがに北東北、と思いました。

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ところで、全くの別件ですが、『朝日新聞』さんに、美術評論家の三木多聞氏の訃報が出ていましたのでご紹介しておきます。 

三木多聞さん死去

 三木多聞さん(みき・たもん=美術評論家)23日、急性心不全で死去、89歳。葬儀は家族で行った。喪主は妻玲子さん。
 大阪の国立国際美術館長や東京都写真美術館長を務めた。著書に「近代絵画のみかた 美と表現」などがある。

昭和46年(1971)、至文堂さん刊行の『近代の美術 第7号 高村光太郎』の編者を務められたほか、翌年7月発行の雑誌『ユリイカ 詩と評論』の「復刊3周年記念大特集 高村光太郎」号で、「高村光太郎の彫刻」という評論を発表なさったりされた方です。連翹忌にも2回ほどご参加いただきました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

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【折々のことば・光太郎】

若いのはいい、若いのはいい。何かが知りたくて、知りたくて、又遊びたくて、遊びたくて、疲れるといふ事が疲労でなくて休息であるほど、若いのはいい。若い人を見てゐると、自然と心が腕をのばして来て、仕舞に思はず微笑(ほほゑ)まされる。若い人の水々しさはいろんな意味で此世を救ふ。

散文「若い人へ」より 大正13年(1924) 光太郎42歳

題名の通り、若い人々へのエール的文章です。このあと、「立身出世教」の毒牙にかかるな、的な内容になったりします。

元々、雑誌『婦人の友』に発表されたものですが、のち、昭和に入ってすぐ、かなり改訂されて、女学校用の教科書にも採録されています。