4/21(土)、文京区千駄木の旧安田楠雄邸で開催中の、写真家髙村達氏による写真展「となりの髙村さん展第2弾補遺「千駄木5-20-6」高村豊周邸写真展」を拝観した後、隣接する髙村家にお邪魔いたしました。写真展見学者対象に、高村家の見学ツアーが催されますが、ツアーが始まってしまうと、達氏はその対応に追われるであろうと予測し、その前に抜け駆けです(笑)。

イメージ 1 イメージ 2

昔の住所で言うと、本郷区駒込林町155番地。002明治25年(1892)、光太郎数え10歳の秋に、一家は谷中からこの地に引っ越してきました。2年前に東京美術学校教授・帝室技芸員に任じられた光雲は、シカゴ万博に出品する「老猿」(重要文化財)の制作中。しかし、夏の終わりに光太郎の姉・さく(咲)が、肺炎のため数え16歳の若さで歿し、辛い思い出の残る谷中の家を出て、この地に移ったそうです。

光太郎は欧米留学に出る同39年(1906)まで、さらに帰国後の同42年(1909)から、同じ町内に光太郎専用のアトリエ兼住居が竣工する同45年(1912)まで、ここに住みました(ごく短期間、日本橋浜町に下宿していた時期がありましたが)。

同44年(1911)、光太郎と智恵子が運命的に出会ったのもここです。太平洋画会で油絵を学んでいた智恵子が、先輩芸術家に話を聞くため重ねていた訪問の一環として、やってきました。

その後、家督相続を放棄した光太郎に代わり、実弟で光雲三男の豊周がこの家を継ぎ、子息の故・規氏、さらに達氏と受け継がれてきました。

建物自体は戦後に建て替えられましたが、敷石や庭木などはほぼ元のままだそうです。数寄屋建築をベースにした設計は、建築家吉田五十八の弟子、中村登一だそうで、平成26年(2014)に国指定登録有形文化財に選定されました。

師匠の吉田五十八は、光太郎も訪れた熱海に現存する岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」の設計も手がけています。

イメージ 4

イメージ 5 イメージ 7 イメージ 6

しかし、いかんせん老朽化がひどく、文化財としての指定を解除し、解体されることとなりました。その前に、外観だけでも一般公開を、ということになって、今回の企画が実現したそうです。

ツアーの皆さんが到着する前に、内部も特別に見せていただきました。

豊周、そして規氏が書斎として使っていた部屋。蔵書等はまだそのまま手をつけていないそうです。

イメージ 8

鋳金の人間国宝だった豊周作の鋳銅の花瓶、それから光太郎のブロンズ「裸婦坐像」(大正6年=1917)。なにげに置いてあったのでびっくりしました。

イメージ 9

やがてツアーの皆さんがご到着。

イメージ 10

安田邸のボランティアガイドさん、それから達氏による解説で、外から見学。

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13 イメージ 14

イメージ 15 イメージ 16

幼少期の光太郎が登って遊んでいたという椎の木。もはや巨木です。竹は母屋の床を突き破ってしまうほどだそうです。

イメージ 17

こうし003た古い建築を遺すことの難しさ――部外者は無責任にいろいろ感じますが、当事者にとってみれば難題が山積という――を、改めて感じました。

旧安田楠雄邸での達氏写真展、そして髙村邸の見学ツアー、明25日(水)、そして28日(土)の、あと2日です。髙村邸見学はそれぞれの日の、13:00と14:30の各2回。安田邸で受付となっています。

この機会にぜひ足をお運び下さい。


【折々のことば・光太郎】

かういふ特質ある画家を十分に育て上げるやうな文化的環境が是非欲しい。同君の未来に私はわれわれ民族の内面形象を大に期待する。

散文「難波田龍起の作品について」より
昭和17年(1942) 光太郎60歳

難波田龍起は、上記髙村邸のすぐ裏に住んでいた洋画家です。光太郎にがっつり感化され、まずは詩、そして洋画の道へと進みました。