今月2日、第62回連翹忌の日に刊行された雑誌です。
高村光太郎研究(39)
2018年4月2日 高村光太郎研究会 税込1,000円
当方も所属する「高村光太郎研究会」の機関誌的に年刊発行されています。
目次は以下の通り。
いまもう一度云っておきたいことがある―平成十九年八月九日、女川光太郎祭談話要旨―
北川 太一
北川 太一
「吉本隆明「高村光太郎」再訪」 赤﨑学
『をぢさんの詩』について(五) ―詩作品に見る『をぢさんの詩』の位置― 岡田年正
光太郎遺珠⑬ 平成三十年 小山弘明
高村光太郎没後年譜 平成29年1月~12月 小山弘明
高村光太郎文献目録 野末 明
研究会記録・寄贈資料紹介・あとがき 野末 明
当会顧問にして、生前の光太郎をご存じの北川太一先生は、このところ、「高村光太郎・最後の年」と題する連載を寄せられていましたが、今年は白内障の手術灯をなさり、書き下ろしができないとのことで、平成19年(2007)、宮城県女川町での女川光太郎祭におけるご講演をまとめられたものを寄稿なさいました。
それから、昨秋、アカデミー向丘で開催された第62回高村光太郎研究会で発表されたお二方が、それぞれの発表に関連する論考を寄せられています。
当方は2本、連載をさせていただいています。筑摩書房『高村光太郎全集』完結後に見つかり続ける光太郎文筆作品の紹介「光太郎遺珠」、それから昨年1年間の光太郎をめぐるさまざまな動きを記録した「高村光太郎歿後年譜」です。
「光太郎遺珠」は、短歌が一首(明治末と推定)、談話筆記で昭和26年(1951)、当時光太郎が暮らしていた花巻郊外太田村の山口小学校長・浅沼政規が筆録したもの、長短併せて7篇、書簡が23通。
比較的長命だったうえ、筆まめだった光太郎ゆえ、書簡はあ

とからあとからたくさん出てきます。現在、秋田県小坂町の町立総合博物館郷土館で開催されている、「平成29年度新収蔵資料展」に出品されている、『智恵子抄』版元の龍星閣主・澤田伊四郎宛の書簡のうち、『全集』未収録のもの、2月に現地に行って筆写して参りましたが、今回の〆切には間に合わず、次号に廻します。
それでも23通。うち、何通かは実際に入手しました。
そのうちの1通。昭和5年12月17日付で、市川忠男というマイナーな詩人に送った絵葉書で、なぜか鵜飼いの鵜の写真です。この頃、光太郎が岐阜方面に行ったという記録はありません。
文面は以下の通り。
拝啓 貴著詩集“静なる草舎”をいただき、感謝します、
心静かな日にしづかによみたいと思つて居ります、
御礼まで一筆、
十二月十七日
御礼まで一筆、
十二月十七日
高村光太郎

『静なる草舎』という詩集については確認できませんでした。情報をお持ちの方はご教示いただければ幸いです。
いつも同じようなことを書いていますが、光太郎の筆跡、味のあるいい字ですね。当方、光太郎独特の崩し方にもだいぶ慣れてきました。
「高村光太郎歿後年譜」は、このブログの昨年末に書いた「回顧2017年」全4回を基にしています。
頒価1,000円です。ご入用の方、仲介いたしますのでこちらまでご連絡ください。
【折々のことば・光太郎】
人体を一つの物質と見て、何等の余分な甘味をも加へず、モデルを唯モデルとして彫刻しても其処に立派な芸術が成立つ筈である。ノイエ ザツハリヒカイトの彫刻の如しだ。その為には強盛な造形的意欲がいる。強盛な造形的意欲無しには物質自然の機微に迫る事覚束ない。
散文「」彫刻新人展評 文部省美術展覧会」より
昭和11年(1936) 光太郎54歳
昭和11年(1936) 光太郎54歳
「ノイエ ザツハリヒカイト」は、独語で「Neue Sachlichkeit」。「新即物主義」と訳され、第一次大戦後に興った芸術運動です。モデルのポーズや表情などにより何かを物語らせる「表現主義」の対極に位置し、徹底したリアリズムに立脚しています。どうも光太郎、自身の肖像制作などで、この方面に興味を抱いていたように思われます。