『岩手日報』さんに、彫刻家・深沢竜一氏の訃報が出ました。

深沢 龍一氏ふかざわ・りゅういち=画家の故深沢省三・紅子夫妻の長男)

 10日午後8時12分、肺炎のため都内の病院で死去、93歳。東京都出身。自宅は東京都練馬区南田中。葬儀・告別式は家族らのみで行う。喪主は妻トシさん。
 盛岡市紺屋町の深沢紅子野の花美術館に深沢夫妻の絵を寄贈し、高窓のステンドグラスのデザインに携わるなど開館に尽力した。


昭和18年(1943)、氏は東京美術学校在学中に学徒出陣となり、3人の上級生の皆さんと共に、本郷区駒込林町の光太郎アトリエを訪れ、大先輩・光太郎から激励の言葉を頂いたそうです。同年、それをモチーフにした「四人の学生」という光太郎の詩が書かれています。

  四人の学生

 けふ訪ねてきたのは四人の学生。
 見しらぬ彫刻科の若い生徒。
 非常措置の実施によつて学窓から
 いち早く入営するといふ美の雛鳥。
 彼等はいふ、002
 「さとりがひらけたやうに
 はつきり心がきまりました。」
 私はいふ、
 「どんなときにも精神の均衡を失はず、
 打てば響いて
 当面する二つなき道に身を挺するこそ
 美を創る者の本領、
 美と義とを心に鍛へる者の姿だ。」
 四人の学生のうしろに
 いま剣をとつて起つ無数の学徒がゐる。
 君、召させたまふ時、
 顧みなくて赴くは臣(おみ)の誇りである。
 まことに千載にして一遇の世に生き
 若き力として名乗り得る者は幸である。
 四人の学生は多くを語らないが
 眉宇すでに美しい。
 「先生もどうかお元気で、」と
 この見しらぬ美の雛鳥らは帰つていつた。
 学徒出陣は日本深奥の決意を示す。
 聖業成りたまふの気
 氤氳として天に漲るを覚える。

海軍の特攻隊に配属されながらも、幸い、無事に復員できた氏は、モンゴルから引き揚げてきたご両親(深沢省一・紅子ご夫妻)と合流、郷里岩手に帰られ、雫石郊外で開墾、牧畜を始めたそうです。ご両親は岩手県立美術工芸学校(現・岩手大学)の教授にご就任、その関係で花巻郊外旧太田村にいた光太郎と親しく交わりました。氏もたびたび光太郎の山小屋を訪れたとのこと。

昭和22年(1947)11月29日の光太郎日記に、氏の訪問の様子が記されています。

午前テカミ書のところへ深沢氏来訪。雫石よりとの事。焼パン、つけものいろいろ、イクラ、牛乳三合ほどもらふ。めづらし。雫石にての開墾生活の話いろいろ。横カケといふところの奥(雫石町より一里程)に新しく家(三十坪)を建てられ、全家すでに移住されし由。風景絶佳の由。ひる弁当を持参此処でくふ。余は汁をつくり進せる。もらつたパンを余はくふ。シユークルートも出す。午後三時半辞去さる。今夜は盛岡泊りの由。

同じ年の8月9日には、やはり太田村の山小屋を訪れたお母様に、氏が頼んでおいた書の揮毫を渡した旨の記述もありました。

午前九時頃分教場行、十時頃盛岡婦人之友友の会の女性達四十人ばかり分教場に来る。深沢紅子さんも来てゐる。(略)深沢さんに「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」揮毫を渡す。竜一氏よりたのまれゐしもの。竜一氏より半紙をもらふ。

「ホメラレモセズ苦ニモサレズ」は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の一節です。おそらくこの時のものと思われる(或いは後述の昭和25年=1950に光太郎が深澤家を訪問した際かもしれません)書を、当方、3年前(平成27年=2015)に氏のご自宅で拝見しました。

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ちなみにその年の連翹忌にもご参加下さいまして、スピーチをお願いしました。上の方の画像がその時のものです。スピーチの前に、光太郎の遺影に深々と頭を下げられ「先生、ご無沙汰しておりました!」と大きなお声でおっしゃっていたのが忘れられません。

昭和25年(1950)の1月には、光太郎が雫石の氏のお宅に2泊しています。残念ながら、この年の光太郎日記は大半が失われていますが、賢治の主治医で、光太郎の花巻疎開に一役買い、さらに終戦直後に約1ヶ月、光太郎を自宅離れに住まわせた佐藤隆房編著の『高村光太郎山居七年』(昭和37年=1962 筑摩書房)に、父君・省三氏からの聞き書きが掲載されています。

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心温まる交流の様子がよくわかります。

太田村に帰った後、光太郎は佐藤隆房にあてた書簡に、「西山村の深沢さんの小屋では二日間に好きな牛乳を一升ものみました。」としたためています。

その後、氏は彫刻を志し、たびたび作品を持参して光太郎の山小屋を訪ね、アドバイスしてもらったそうですが、やはり残念ながらそのあたりの光太郎日記が失われています。

またお一人、生前の光太郎を知る方が亡くなられ、誠に残念です。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


【折々のことば・光太郎】

書を見てゐるのは無條件にたのしい。画を見るのもたのしいが、書の方が飽きないやうな気がする。書の写真帖を見てゐると時間をつぶして困るが、又あけて見たくなる。疲れた時など心が休まるし、何だか気力を与へてくれる。
散文「書をみるたのしさ」より 昭和29年(1954) 光太郎72歳

光太郎最晩年の言ですが、実際にこの時期、終焉の地となった中野の中西家アトリエで、書の写真集を見る光太郎の姿が、たびたび写真に収められています。

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