今日、3月10日は、73年前に東京大空襲があった日です。同じ昭和20年(1945)、東京ならぬ花巻空襲関連で。

著名人の出生から連載時までの半生を描いた、日本経済新聞の人気コラム「私の履歴書」。今月は宗教学者の山折哲雄氏です。

氏ご自身は昭和6年(1931)、米国桑港のご出身ですが、お母様のご実家が岩手花巻の中心部にある専念寺さんという寺院で、戦時中には花巻に疎開、旧制花巻中学(現・花巻北高校さん)に通われていたとのこと。

そして昭和20年(1945)8月10日の花巻空襲。7日掲載の第7回、8日掲載の第8回で、その日のこと、そして終戦の玉音放送について語られています。長いので引用はしませんが。

イメージ 1 イメージ 2

第7回では、花巻空襲の証言集『花巻が燃えた日』(平成11年=1999 加藤昭雄著 熊谷印刷出版部)を紹介する中で、光太郎の名も出して下さっています。

ちなみに同じ加藤氏の御著書で、姉妹編とも言える絵本、『花巻がもえた日』(平成24年=2012 ツーワンライフ)にも光太郎が登場します。空襲があった時、光太郎は宮沢賢治の実家に疎開していました。

イメージ 3 イメージ 4

当日の光太郎日記。ただし、あとで落ち着いてから書いたものと思われます。

八月十日 金
晴 午前五時サイレン、空襲。花巻町に爆弾落下、銃撃あり。館あたりと思ふ。艦載機なり。九時半頃なり。(花巻町初爆撃)。 (中略) [午后一時過より空襲、爆弾、焼夷弾。花巻町過半焼失。宮沢家も類焼。余は始め水かけ。後手まはり、仕事道具を壕に入れて、校長さん宅に避難、校長さんかけつけ来らる<(千代田さん火傷)>]

町中心部への本格的な攻撃は午後でしたが、午前中から郊外の飛行場は空襲を受け、町内でも小規模な機銃掃射があったそうです。「校長さん」は、元花巻中学校長・佐藤昌、「千代田さん」は光太郎と同じく宮沢家に厄介になっていた千代田稔という青年です。

逃げ遅れた賢治実弟の清六は、敷地内に作った防空壕に避難しますが、家屋の燃える熱で壕内でも発火、たまたま壕に入れてあった一升瓶の醤油で消し止め、九死に一生を得たそうです。そのおかげで、というと何ですが、やはり壕に入れておいた賢治の遺稿は無事でした。清六が逃げ遅れなかったら壕に入ることもなく、壕もろとも灰になっていたことでしょう。不思議な縁を感じます。

山折氏の母方の実家・専念寺さんもかろうじて無事だったそうでした。

それにしても、当方寡聞にして、山折氏と花巻とのつながりは存じませんでした。「私の履歴書」、このあともしばらく続きます。賢治に関するご著書もおありの山折氏ですので、また賢治がらみで光太郎への言及があるかもしれません。注意しておこうと思いました。


追記 早速今日、花巻で光太郎と遭遇した思い出を書いて下さっていました。後ほどご紹介します。


【折々のことば・光太郎】

美は小味となり、本格的な美そのものよりも、むしろそれを作り出す方便であるところの手腕技倆の方に関心が払はれ、「うめえもんだ」といふやうな感嘆の声を人は求めるやうになつたのである。人にはとても出来ないやうなものを工夫して作り出す競争が始まつた。細工の意識である。

散文「江戸の彫刻」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳

江戸期の「細工」の考えが、明治の「超絶技巧」につながるのでしょう。そういったものに光太郎は積極的な価値を見いだしてはいませんでしたが……。