2月13日(火)、秋田小坂をあとに、再び高速バスに乗って岩手方面へ。バス終点の盛岡から東北本線に乗り、光太郎第2の故郷ともいうべき花巻を目指しました。

到着が昼頃でしたので、迎えに来て下さった花巻高村光太郎記念会の事務局長さん、そして市役所の方と昼食。向かったのは、市役所近くの「茶寮かだん」さん。宮沢家と姻戚感関係だったという、旧橋本家の別邸を改装しオープンした、最近流行の古民家カフェ的なお店です。なるほど、外観といい、内部の造作といい、実にいい感じでした。

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画像ではわかりにくいのですが、天井は漆喰塗りで、電灯ソケットの周りはアールヌーボー風の鏝絵(こてえ)が施されています。

当方一行が通されたのは玄関脇の洋間でしたが、奥の和室では、賢治や妹のトシが眺めたというひな人形などが飾られていました。

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何かの折には、光太郎も見たかも知れません。

また、ここに賢治が設計した花壇が元々あったということで、それが復元されているそうです。現在は雪で覆われていますが。

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遠くに見える高い建物は、大食堂で有名なマルカンさんです。

その手前に、かつてあった呉服屋の大津屋さんがこちらの元の持ち主だそうです。

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ここでは光太郎も買い物をしていたことが、日記に記されています。

その後、事務局長さんの車で、郊外旧太田村の高村光太郎記念館さんへ。市街地は陽が差していましたが、旧太田村に近づくにつれ、雲行きが怪しくなり、とうとう雪が降ってきました。

車窓からの眺めも、「雪原」的な感じに。

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そして記念館さん。積雪はメートル単位だったでしょう。

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ちなみに昨年12月の様子はこんな感じでした。

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こちらで、来年度の諸事業について、色々と打ち合わせ。詳細はのちほど、正式に発表になってからご紹介しますが、例年行っている5月15日(今年は火曜日です)の高村祭、その他に企画展示や市民講座等、いろいろと面白い企画が盛りだくさんです。

現在も今月26日(月)までの日程で、企002画展「高村光太郎 書の世界」が開催中でしたが、新幹線の時間もあり、2度目の拝観は叶わず。

同じ敷地内の、光太郎が7年間を暮らした山小屋(高村山荘)は、冬期閉鎖中。そこにたどり着くまでがやはりメートル単位の積雪で、近づけませんでした。

以前にも書きましたが、60歳を過ぎた光太郎、まったく、よくぞまあこんなところで、しかもたった一人、七度も冬を越したものだと思います。

しかし、この過酷な環境が、自らを見つめさせるよい契機になったのでしょう。はじめは無邪気にこの地に文化集落を作ると意気込んでいた光太郎も、自らの戦争責任をしっかりと捉え、真の意味でのヒューマニスティックな視点を得ました。それを光太郎自身は「脱郤(「郤」は「却」の正字)」と名付けました。

俗念や煩悩の塊である当方も、こうした暮らしを続ければ、「脱郤」に至れるのでしょうか(笑)。しかしとてもここで暮らすのは無理そうです。

――という過酷な環境を呈しているこの地、ぜひ、多くの方に、この時期に訪れていただきたいものです。

再び事務局長さんに送られ、新花巻駅から新幹線で帰りました。都内に入ったあたりからの車窓風景。

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関東地方の人間は、富士山を見るとほっとします。昭和27年(1952)、旧太田村の山小屋から帰京した光太郎は、どんな思いで富士山を眺めたろうか、などと思いました。

以上、東北レポートを終わります。


【折々のことば・光太郎】

われわれは気宇を大にして分秒を積んで切磋しなければならない。

散文「とびとびの感想」より 昭和18年(1943) 光太郎61歳

太平洋戦争に於ける日本の敗色が濃厚となってきた時期のもので、それ故の一種悲壮な決意といった感じです。

光太郎は、戦後の旧太田村での山小屋暮らしの中でも、そしてそこから帰京して取り組んだ最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作中も、ベクトルは違えど、こういうことを考え続けていたのではないかと思われます。