一昨日から昨日にかけ、1泊2日で北東北3県、秋田、青森、岩手を回っておりました。3回に分けてレポートいたします。

まずはメインの目的だった、秋田県小坂町。

光太郎詩集の代表作の一つ、『智恵子抄』を昭和16年(1941)に刊行し、その後も光太郎の詩集や散文集などを手がけた出版社龍星閣創業者・故澤田伊四郎氏の遺品のうち、光太郎や棟方志功関連の資料およそ5,000点が、澤田の故郷である小坂町に、昨秋、寄贈されました。

花巻の高村光太郎記念館さん経由で、その情報が入り、担当の方と連絡を取り合ったところ、『高村光太郎全集』に掲載されていない光太郎書簡が多数含まれていることがわかり、調査に赴いた次第です。

小坂町は十和田湖の西半分を含む山あいの町です。盛岡から出ている青森行きの高速バスが小坂に停まるため、それを利用しました。東北自動車道を走るバス、小坂ICで一旦一般道に下り、IC近くの小坂高校さんで停車します。町中心部までは2㎞ほどでしょうか。

イメージ 1

町教育委員会の担当の方が車で迎えに来て下さっていまして、助かりました。

今回寄贈を受けた新資料を、来月11日から展示する町立総合博物館郷土館さん。

イメージ 2

現在は冬期休館中ということで、隣接する町立図書館さんに通されました。

早速、光太郎関連資料を拝見。事前に、『高村光太郎全集』掲載済みの書簡と、そうでないもの(半々です)とを区別して下さっていたので、手間が省けました。未公開のものは、一通ずつ筆写させていただきました。

最初に情報を得た時から、なぜ、半数のみが『高村光太郎全集』に既収で、半数がそうでなかったのか、あれこれ推理していました。公表するには差し障りのあるものは提供しなかったのではないか、など。ところが、読んでみると、そうでもないようでした。特に既出のものと比較して大きな違いはありません。

最も古いものは、戦時中の昭和17年(1942)、最後のものは、光太郎最晩年の昭和30年(1955)のもの、大半は花巻郊外旧太田村在住時のものでした。特に目を引いたのが、詩文集『智恵子抄その後』(昭和25年=1950)出版に関する内容のものがあったこと。最初は出版に乗り気でなかった様子が窺えましたが、どうも澤田の熱意にほだされたように見受けられます。

それから、他に類例がないハガキ類。一言でいうと受領証の類ですが、澤田から送られた完成した『智恵子抄その後』や、茶葉、香水線香などの雑貨類を確かに受け取ったよ、というハガキ。これが10通以上あり、途中からは宛先の澤田の住所氏名、品目などは澤田の筆跡になっています。光太郎が律儀に受け取りのハガキを返送するので、途中から澤田が光太郎の手間を軽減しようと、返送用に小包に同封したのだと思われます。

イメージ 3

面白いと思ったのは、その品目の中にあった「クマゼミ(シヤンシヤン蝉)」という項目。既出の書簡には、熱海に住んでいた澤田にクマゼミを捕まえて送ってくれ、的な内容がありましたが、それの受領証です。光太郎、太田村の山小屋に蟄居中は、作品として彫刻を発表することを一切しませんでしたが、手すさびというか、腕をなまらせないための鍛錬というか、そういう形では蝉などの彫刻を彫っていたようです。地元民の方の目撃談もありますし、他の人物に送った書簡にもそういった内容があります。短歌でも、「太田村山口山の山かげに稗をくらひて蝉彫るわれは」(昭和21年=1946)というものがあり、あながちフィクションではなさそうです。ただ、彫ったものの現物は確認できていませんが。

それから、その太田村での生活のディテール。これは『高村光太郎全集』既収の、他の人物に宛てたものにも共通しますが、やはり四季折々に光太郎が感じた自然美などが記されています。何げない一言にも味わいがありました。

その他、光太郎の周辺人物からの書簡類もかなりありました。太田村で光太郎に山小屋の土地を貸していた駿河重次郎、宮沢賢治の父・政次郎と共に花巻疎開を助けた医師・佐藤隆房、光太郎の仲立ちで、智恵子の最期を看取った智恵子の姪・春子と結婚した宮崎稔、そして宮崎歿後は春子。

個人経営、おそらく社員一人の龍星閣、明確な印税制を採らず、光太郎もその辺りはアバウトでしたから、どれだけ著書が売れても光太郎は報酬を受け取ることに積極的ではありませんでした。ある意味仕方なく、澤田は小切手やらで「寸志」として送りました。また、『智恵子抄』の戦後復元版(昭和26年=1951)が出た頃には、澤田が6万円あまりを負担して、山小屋を増築しています。大工の手配等は駿河重次郎がやったようで、駿河から澤田には、その工事経費の明細書的なものが送られていました。

このブログでまた続報を出すと思いますが、先述の通り、来月11日から、小坂町立総合博物館郷土館さんで、企画展「平成29年度新収蔵資料展」として、光太郎関連もピックアップされて出品されます。ぜひ足をお運び下さい。

イメージ 4


ところで小坂といえば、かつて鉱産額で全国一位にまでのぼりつめた小坂鉱山の企業城下町として、レトロモダン建築が立ち並ぶ「明治100年通り」が有名です。昨日の朝、歩いて参りました。

国指定重要文化財・小坂鉱山事務所。

イメージ 5 イメージ 7

イメージ 6

イメージ 8

イメージ 9


天使館(旧聖園マリア園)。元の保育園的な。

イメージ 10

イメージ 11 イメージ 12

日本最古の芝居小屋・康楽館。こちらも重要文化財です。

イメージ 13

イメージ 14

横から見ると、擬洋館建築だというのがよくわかります。


小坂鉄道レールパーク。ただしこちらは冬期閉鎖中。

イメージ 15

それにしても、雪、雪、雪でした(笑)。

イメージ 16

明日は「十和田湖冬物語2018」をレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

人間の四肢胴体の凹凸を司る理法は重畳たる山嶽の起伏を司る理法と違つてゐない。彫刻家は人間の顔面に湖を見たり、瀧を見たり、雲を見たりする。

散文「彫刻に何を見る」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

龍星閣からオリジナルの『智恵子抄』が刊行された年に書かれた評論です。