まず、『東京新聞』さんの記事から。見出しの「きょう」というのは先週土曜です。
鴎外と芸術家の親交たどる 文京の記念館、きょうから展覧会
文京区立森鴎外記念館(千駄木1)で13日から、コレクション展「鴎外・ミーツ・アーティスト-観潮楼(かんちょうろう)を訪れた美術家たち」が始まる。文豪の鴎外(1862~1922年)と交流のあった芸術家ゆかりの作品などを展示、鴎外のあまり知られていない交友関係を明らかにする。4月1日まで。 (井上幸一) 鴎外はドイツ留学中、洋画家の原田直次郎(一八六三~九九年)と出会い、美術批評も始める。以降、公私にわたって多くの芸術家と交流。画家をモデルに、「ながし」「天寵(てんちょう)」などの小説を生み出している。
二階の書斎から東京湾が見えたという観潮楼は、鴎外が「青年」「雁(がん)」「高瀬舟」などの作品を著した住居跡。文京区が跡地に建てたのが森鴎外記念館だ。
展覧会では、楼を訪れた芸術家に焦点を当て、鴎外に宛てた書簡、鴎外が所持していた絵画、鴎外作品を彩った装丁本、「ながし」の生原稿など、記念館のコレクション約八十点を展示。大下藤次郎、岡田三郎助、高村光太郎、長原孝太郎、藤島武二、宮芳平ら、画家や彫刻家たちに鴎外が向けたまなざしや、それぞれの芸術家が鴎外作品に何を見いだしたのかを浮き彫りにする。
記念館の広報担当者は、「親交が深かった原田直次郎との関係を展示したことはあるが、他のアーティストとの関わりを広く紹介するのは初めて。美術界に鴎外が深く関係していた事実を知ってもらえれば」とPRしている。
期間中の二月二十四日午後二時から、実践女子大の児島薫教授による講演会「鴎外が嘱望した洋画家藤島武二」を開催(定員五十人、事前申込制)。一月二十四日、二月七日、二十八日、三月十四日の午後二時からギャラリートーク、三月二十一日午前十一時から、鴎外作品のブックデザインを楽しむスペシャルギャラリートークがあり、いずれも学芸員が展示品などを解説する。観覧料三百円、中学生以下無料。二月二十六日、二十七日、三月二十七日は休館。問い合わせ、講演会の申し込みは、森鴎外記念館=電03(3824)5511=へ。
他紙でも紹介されていますが、若干、とんちんかんな記述があったりしますので割愛します。
というわけで、詳細は以下の通りです。
コレクション展「鴎外・ミーツ・アーティスト―観潮楼を訪れた美術家たち」
期 日 : 2018年1月13日(火) ~ 4月1日(日)会 場 : 文京区立森鷗外記念館 東京都文京区千駄木1-23-4
時 間 : 10:00~18:00
料 金 : 一般300円(20名以上の団体:240円)
休館日 : 2月26日(月)、27日(火)、3月27日(火)
小説家、翻訳家、陸軍軍医など八面六臂の活躍で知られる鴎外ですが、実は美術とも深いつながりを持っており、沢山の美術家の知己を得ています。鴎外は美術家たちの良き理解者でありながら、時には厳しい批評者でもあり、また美術庇護者としても彼らを支えます。鴎外にとっても、彼らは仕事仲間であり、一方で創作の源泉となる存在でもありました。
鴎外が出会った美術家たちの中から、鴎外の居宅・観潮楼(現・文京区立森鴎外記念館)を訪れた美術家に、100年以上の歳月を経て、再び集まってもらいましょう。鴎外に作品を評価された洋画家・藤島武二、鴎外作品のモデルにもなった水彩画家・大下藤次郎、東京美術学校で鴎外の講義を受けた彫刻家・高村光太郎、鴎外の著書の装丁を多数手がけた洋画家・長原孝太郎…。美術界における旧派と新派、あるいは明治美術界から白馬会、太平洋画会との価値観がせめぎ合う中で、鴎外は彼らにどのような眼差しを向けてきたのでしょうか。そして美術家たちの眼は鴎外自身と鴎外作品に何を見出したのでしょうか。観潮楼に届いた美術家たちの書簡、鴎外の美術批評、鴎外作品を彩った装丁本など当館のコレクションを通して、「鴎外が見つめた美術家」と「美術家が見つめた鴎外」に迫ります。
鴎外が出会った美術家たちの中から、鴎外の居宅・観潮楼(現・文京区立森鴎外記念館)を訪れた美術家に、100年以上の歳月を経て、再び集まってもらいましょう。鴎外に作品を評価された洋画家・藤島武二、鴎外作品のモデルにもなった水彩画家・大下藤次郎、東京美術学校で鴎外の講義を受けた彫刻家・高村光太郎、鴎外の著書の装丁を多数手がけた洋画家・長原孝太郎…。美術界における旧派と新派、あるいは明治美術界から白馬会、太平洋画会との価値観がせめぎ合う中で、鴎外は彼らにどのような眼差しを向けてきたのでしょうか。そして美術家たちの眼は鴎外自身と鴎外作品に何を見出したのでしょうか。観潮楼に届いた美術家たちの書簡、鴎外の美術批評、鴎外作品を彩った装丁本など当館のコレクションを通して、「鴎外が見つめた美術家」と「美術家が見つめた鴎外」に迫ります。


光太郎の母校・東京美術学校の教壇に立ち「美学」の講義をしたり、文展(文部省美術展覧会)の審査員をしたりした鷗外、美術については一家言ある人でした。そこで、光太郎を含む美術家たちとの交流をテーマにした企画展です。
展示目録によれば、光太郎関連では、光太郎から鷗外に宛てた葉書(明治43年=1910)、これは鷗外が自宅で催していた観潮楼歌会への誘いを断るものです。理由として、やはり今回の展示で取り上げられている藤島武二がフランスから帰った歓迎会とブッキングのためと書かれています。
それから明治42年(1909)の雑誌
『スバル』(覆刻)。裏表紙に光太郎筆の、鷗外をモデルにしたカリカチュア(戯画)が掲載されています。題して「観潮楼安置大威徳明王」。この絵に関し、今回の展示を報じる某紙では「高村が見た鴎外の超人的に多才な姿が映される」としていますが、そういうわけはありません。鷗外を尊敬しつつも、敬して遠ざけていた光太郎(観潮楼歌会も何だかんだ理由を付けて逃げ回っていました)、うっかり「誰にでも軍服を着させてサーベルを挿させて息張らせれば鷗外だ」などという発言をし、鷗外に自宅に呼びつけられて説教された光太郎ですので。もっとも、「この絵はどういう意味だ」と詰問された際には「先生の超人的なお姿です」と切り抜けるつもりだったのかもしれません(笑)。

ちなみに同じシリーズでは馬場孤蝶、永井荷風、三木露風、北原白秋、与謝野晶子、小山内薫らのカリカチュアも描いていますし、実現はしませんでしたが、光太郎が経営していた画廊・琅玕洞で、同じ趣向の切抜人形展も企画していました。
ただし、茶化すだけでなく、それぞれ親しみを込めて描かれているものであることは確かです。
さらに光太郎著書『造型美論』(昭和17年=1942)、『某月某日』(同18年=1953)。それから与謝野寛が光太郎について触れた鷗外宛の書簡(明治42年=1909)も、光太郎のコーナーに出ています。
光太郎以外では、先述の藤島武二(光太郎が留学直前に再入学した東京美術学校西洋画科教授でした)、光太郎に猫をくれた岡田三郎助、光太郎と書簡のやりとりもあった宮芳平などにスポットが当てられています。
ぜひ足をお運びください。
【折々のことば・光太郎】
日本人は概して習字を大切にしない。随分下手な書でも其れを書いた者の人物が直接に出てゐる事を喜ぶ。書法の衣裳を纏はないものに卻つて心ををひかれる。あまりうまい書を内心低く考へる者さへ居るのである。
散文「七つの芸術」中の「六 書について」より
昭和7年(1932) 光太郎50歳
昭和7年(1932) 光太郎50歳
ここで言う「習字」とは、「書道」という意味ではなく、日々の鍛錬として毛筆で字を書くという意味です。書の発祥の地、中国では、「習字」を重視し、大抵の人の書くものはともかくも書として成立しているが、日本ではそうではなくなったという論旨です。