昨日ご紹介した、埼玉東松山市立図書館さんの「田口弘文庫 高村光太郎資料コーナー」オープンにつき、『東京新聞』さんが取り上げて下さいました。 

高村光太郎、思いに触れて 東松山市立図書館に資料コーナー

 昨年二月に亡くなった東松山市の003元教育長田口弘さん=当時(94)=が生前、同市に寄贈した彫刻家で詩人の高村光太郎(一八八三~一九五六年)の資料約百点を活用した「田口弘文庫『高村光太郎資料コーナー』」が十三日、東松山市立図書館二階にオープンした。光太郎が田口さんに贈った書や書簡のほか、田口さんが収集した「道程」「智恵子抄」の初版本など貴重な資料が展示されている。 (中里宏)
 田口さんは旧制松山中学(現松山高校)時代、恩師の影響で光太郎に傾倒。一九四四年、初めて東京・駒込のアトリエで光太郎に会って以来、戦後も交流を続けた。
 同年夏、田口さんは占領地で日本語を教える海軍教員として南方に赴任する前、「世界はうつくし」「うつくしきもの満つ」の二枚の色紙を書いてもらった。しかし、赴任途中に乗っていた輸送船がフィリピン沖で米軍に撃沈され、色紙は失われた。展示されている同じ言葉の色紙は、九死に一生を得た田口さんが戦後、岩手県で隠とん生活を送っていた光太郎を訪ね、再び書いてもらったものだ。田口さんは二〇一六年、これらの資料を市に寄贈した。
 オープン式典でテープカットした田口さんの長女栗原直子さんは「父は『(高村光太郎に)じかに会ったことで人生が変わった。本物に触れれば胸に響くのではないか』と、子どもや若い人が資料を直接見ることを望んでいた。実現して本当にありがたい」と話していた。


それから、オープン記念の講演の中でご紹介させていただきましたが、当日の『朝日新聞』さんの土曜版の連載、「みちのものがたり」が「高村光太郎「道程」 岩手 教科書で覚えた2大詩人」。

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長いので全文の引用はしませんが、昭和20年(1945)から27年(1952)まで、光太郎が蟄居生活を送った岩手花巻郊外の旧太田村に今も残り、田口氏も訪れた山小屋(高村山荘)での光太郎を追っています。当時の光太郎をご存じの皆さん(高橋愛子さん、浅沼隆さん、高橋征一さん)の証言、宮沢賢治との関わり、隣接する花巻高村光太郎記念館さんの紹介等。写真は山小屋別棟の便所です。光太郎自身が明かり採りのために「光」一文字を壁に彫り抜きました。

それから、同じ土曜版の「編集部から」という記事。雑誌の「編集後記」のようなもので、こちらでも光太郎に触れて下さっています。 

編集部から

 三省堂神保町本店(東京都千代田区)は、教科書004を店頭販売する珍しい本屋さんです。そこで、3時間も立ち読みをする迷惑な客をやってしまいました。6、7面「みちのものがたり」で取り上げた高村光太郎の「道程」が、どれだけ今の教科書に載っているか確認するためでした。
 ところが、「僕の前に道はない」で始まる詩がなかなか見つからない。少なくとも、5社から出ている中学の国語教科書(各3学年分)には皆無。出版社が多く、必修用やら選択用やら複雑な高校の教科書はすべてに目を通せた自信はないものの、やっと1冊だけありました。
 岩手県北上市の日本現代詩歌文学館は、2006年度の教科書に掲載された詩歌作品を調べています。それによると、「道程」は中学の3冊、高校の4冊に掲出されていました。教科書の定番教材としての「道程」の地位は、この10年ほどで急激に低下したと考えられます。
 「道程」の読みを聞いて、教室の男子生徒たちがざわついたのも今は昔。「有名な詩にあるだろう。僕らの後ろに道は出来るんだ!」と熱く語っても、きょとんとされてしまう時代が近づいているようです。(坂本哲史)


中学校の教科書に、「道程」が見あたらないという話。確かにそうかもしれません。ただ、道徳の教科書で取り上げて下さっている出版社さんがあるようです。


やはり先週の土曜、『毎日新聞』さんでは、光雲・光太郎父子の名を出して下さいました。

工芸の地平から 人形と彫刻=外舘和子

 日展、日本伝統工芸展などいずれの団体展におい005ても「人形」は工芸領域の一つと見做(みな)されているが、その条件は他の工芸と明らかに異なる。陶芸は土、金工なら金属と、工芸は通常扱う素材によって分類されるが、人形は作家により陶、木、布など、素材を限定しない。人形はヒトの形象を基本とする、その具象性によってのみ領域が成立しているのである。 
 
 日本の歴史を遡(さかのぼ)れば、ヒトガタの形象は縄文時代の土偶や古墳時代の形象埴輪(はにわ)に始まり、仏像のように重厚なものから、雛(ひな)人形など、より親近感ある形象まで幅広い造形として発達した。昨今流行(はや)りの超絶技巧に相当するものなら幕末明治の「生(いき)人形」がある。
 ところが明治期に西洋から「彫刻」の概念が入ってくると、にわかに仏像は「彫刻」に分類されるようになった。仏師であった高村光雲が東京美術学校の彫刻の教員になり、観古美術会などの明治の展覧会の彫刻部門に仏像が出品されたことがその背景にある。しかし日本の木彫や仏像はむしろ人形的であり、その特徴は人形同様“表面への拘(こだわ)り”にある。人形・彫刻とも、量感やバランス、ポーズや動勢に配慮するが、人形はその上でさらに表面造形を丁寧に行う傾向を持つ。彩色し、あるいは衣装を着せ、表面を丁寧に加飾し、顔の表情は細やかに整える。それは日本の仏像において、彩色し、截金(きりかね)を貼り、翻る衣の生地の雰囲気を慎重に表現し、顔の表情で全体の印象が左右される状況と通じる。
 面と骨格、マッスとボリュームで対象を大きく掴(つか)むことを重視し、表面や細部に拘ってはならないとする西洋の人体彫刻とは、日本の人形・仏像とも、理念において対照的でさえある。また、人形と彫刻の違いを“大きさ”であると主張する人もいるが、周知のように仏像は必ずしも大型のものだけではない。また、仮に等身大以上の大きいものが彫刻だというなら、戸張孤雁(とばりこがん)、高村光太郎、中原悌二郎など近代の主要な彫刻家は殆(ほとん)ど彫刻を作っていないことになる。大きいものを彫刻とする説は、近代の主要な彫刻家が得意としたサイズを説明できない。
 昨年、中世を代表する仏師・運慶、快慶の展覧会が相次いで開催された。快慶は表面の截金等による加飾がその特徴でさえある。また日本の造形史上の傑作、運慶の無著(むじゃく)像の最大の魅力は、その今にも言葉を発しそうな顔の表情にある。「人形は顔がいのち」という雛人形のCMが思い出されよう。さらに、無著像はその顔の表情に比べると手指の表現が硬い。顔と手の表現に苦労するのは現代の人形作家も同様だ。表面を重視し、細部に拘る日本の人形と仏像に、西洋由来の彫刻とは異なる、共通の造形姿勢を見るのである。(とだて・かずこ=工芸評論家)


購読していない新聞は、当方、地元の図書館で閲覧させていただいたり、コピーを取らせていただいたりしております。皆様もぜひそうして下さい。


【折々のことば・光太郎】

橋梁、倉庫、事務所、病院、実験室までは通り得る建築機械論も住宅建築に及んで人間性の反逆に遭つた。住む機械は人間の持つロマンチスムをも運転させ得る機械でなければならなくなつた。

散文「七つの芸術」中の「三 建築について」より
 昭和7年(1932) 光太郎50歳

「建築機械論」は、フランスの建築家、コルビジェが提唱したものです。「住宅は住むための機械である」とは、彼の有名な言です。しかし、コルビジェとて、無機質な「機械」を想定してそう言ったわけではなく、水に浮かぶ機能のない船は船ではなく、空を飛ぶ機能のない飛行機は飛行機ではない、同様に住むことができない住宅は住宅ではない、といった意味での「機械」です。

駒込林町の自身のアトリエや、交流のあった思想家・江渡狄嶺の依頼による「可愛御堂」などの建築設計もこなした光太郎。コルビジェについても同じ文章で「彼の機械主義の中に既に新しいロマンチスムが潜んでゐた」と理解を示しています。