12/3(日)、長坂町の清春芸術村をあとに、次なる目的地、南巨摩郡富士川町上高下(かみたかおり)地区を目指しました。

ここには光太郎の足跡が残っています。昭和17年(1942)、光太郎が詩部会長に就任した日本文学報国会と読売新聞社が提携して行われた「日本の母」顕彰事業のためです。

翌年、春陽堂書店から刊行された『日本の母』の跋文より。

 第一線で皇軍将士が死を鴻毛の軽きに比し勇戦敢闘するのも、国内で国民挙つて米英撃滅の戦力増強に挺身敢闘するのも、これ万邦無比の国体を戴き三千年の誇るべき伝統に培はれた日本民族の優秀なる精華の具顕であるが、しかもこの強兵健民を直接に育てた母の庭訓を忘れてはならぬ。偉大なるこの母の力、それは決していはゆる良妻賢母や烈婦貞女のみを謂ふのではなく、実に農山漁村にあつて、市井の巷にあつて、黙々として我児を慈しみ育む無名の母の力こそ偉大なのである。(略)聖戦完遂の国民士気昂揚を計るために、この尊き無名の母を一道三府四十三県及び樺太の全国津々浦々に尋ねて「日本の母」として顕彰することにしたのである。

光太郎を含む49名の文学者が駆り出され、各道府県1人(東京府のみ2人)ずつ、軍人援護会の協力で選定された「日本の母」を訪問し、そのレポートが『読売報知新聞』に掲載され、のちに単行本化されました。単行本では北から南への順ですが、『読売報知新聞』での初出は順不同だったようで、光太郎が執筆した回が最終回でした。どの道府県に誰が行くというのも一貫性がなく、香川の壺井栄、石川の深田久弥などはそれぞれの出身地ですが、佐藤春夫が茨城、川端康成で長野など、あまりゆかりのなさそうな組み合わせもありました。光太郎も山梨にはあまり縁がなかったはずです。

光太郎が訪問したのは、当時の南巨摩郡穂積村。現在の富士川町です。ここに住んでいた井上くまが「日本の母」の山梨県代表でした。

くまは光太郎より5歳年下の明治21年(1888)生まれ。もともと隣村の出身でしたが、結婚して夫婦で穂積村に移住、2人の男児をもうけました。ところが夫は病弱で、昭和のはじめに早世。以来、薪売りや他家の手伝いなどをしながら女手一つで2人の子を育て、2人共に召集。弟の方は満州で戦病死していました。その後も報国の志篤く、軍費調達のための保険や土木作業の徴用などに積極的に協力、そのために「日本の母」選定に至ったようです。

光太郎のレポートから。

痩せた小柄の五十がらみに見える井上くまさんが絣の木綿著の筒袖の縞の羽織をひつかけて、元気のよい笑顔で私達を招じ入れた。来意を告げる。『遠いとこへよくお出でしいした』と小母さんはきちんと坐つてお辞儀をする。甲高くない稍さびた、しかし音幅のあるその声がまづ快かつた。次の部屋に一同座を占める。正面の床の間一ぱいが仏壇がはりになつて居り、南無妙法蓮華経の掛軸の下に若い兵隊さんの同じ写真が二枚立てかけてあつた。戦病死された次男重秋君の面影である。一同まづ霊前に焼香する。小母さんは何かと立ち働いて茶など運ぶ。(略)小母さんは坐つて問はれるままに思出しては話す。方言に甚だ魅力があり、時時私には分らない事もあつたが、それは大森さんや望月さんが通訳してくれた。


さて、中部横断自動車道の増穂ICで下り、町役場などの立ち並ぶ中心街を抜けて、ヘアピンカーブの続く山道を登ります。ちょうどこの日は「ゆずの里 絶景ラン&ウォーク大会」だそうで、走っている方とすれちがいました。目指すは光太郎の文学碑。「日本の母」顕彰で光太郎がここを訪れたことを記念して、昭和62年(1987)に建てられています。

文学碑のすぐ手前に「ダイヤモンド富士」観測スポット。冬至の前後、ここから富士山頂上に上る日の出が見える場所です。

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そこから100㍍ほどで、光太郎文学碑。

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おそらく富士山に似た形の自然石を選んだのでしょう。刻まれているのは、折にふれ光太郎が好んで揮毫した「うつくしきものみつ」という短句。「みつ」は「満つ」。「満ちる」の古語ですね。

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以前にも書きましたが、光太郎は変体仮名的に「み」を片仮名の「ミ」で書く癖があり、「うつくしきものミつ」となっています。書簡でも「おてがミありがたう」的な表記が散見されます。ところが、そうした事情に疎い方々の間で、この碑文を「うつくしきもの三つ」と読み(さる高名なゲージツ家のセンセイも、そのように誤読しています)、「三つ」はこの地にある富士山、特産の××……などという誤解が生じ、そのように紹介されているサイトも存在します。ある意味「都市伝説」のような、こうした誤解が広まってしまうのは仕方がないことなのかも知れませんが。

当方、この地を訪れるのは20数年ぶり2回目。初めて訪れたのは、甲府に家族旅行で来たついででした。その際には、家族を車中に待たせていたこともあり、この碑のみ見て帰りました。しかし今回は一人ですので、車を駐めて周辺を歩きました。

碑の近くには上高下地区の家々。

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光太郎が訪問した井上家も残っているという話を聞いていたので、それを探します。たまたま庭にいた方を発見、訊いてみたところ、あの家だよ、と教えて下さいました。ありがたや。

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馬の背に揺られて上ってきた光太郎のレポートに「上高下の家々が見え、その間を縫つて馬はもつと高い一番外れの茅ぶきの一軒家の前にとまる。」とあり、そのとおり、集落の一番外れでした。ただし、茅ぶきだった屋根はトタン張りになっていました。

この家だと教えて下さった方の話では、かつて息子さんが住んでいらしたそうですが、もう山を下り、空き家になっているということ。光太郎レポートと照らし合わせてみると、2人いて共に出征した男児のうち、弟の方は戦病死というわけでしたが、兄の方は無事に復員できたようです。お会い出来ればなおよかったのですが、家が確かめられたのはラッキーでした。

74年前、光太郎がこの家を訪れたのかと、感慨にふけることしばし。

再び光太郎レポートから。

 珍客があると必ず出す習慣であるといふおだら(うどん)を小母さんは一同に御馳走してくれた。いろんな野菜の煮付を手にのせてくれる。それが実にうまく、私は遠慮なくたべた。話が一応すんだのでふと振りむいて外を見る。軒端一ぱいにさつきの富士山がまつたく驚くほど大きく半分雪をかぶつて立つてゐる。実に晴れやかに、爽やかに、山の全貌を露出して空を支へるやうに聳えてゐる。(略)こんな立派な富士山は初めて仰いだ。富士山を見るなら上高下に来よと私は言ひたい。三十八戸の上高下部落の人々も此霊峰をこよなきものとして崇敬してゐる。(略)霊峰は幾代となく此部落の人達の魂の中にその霊気を吹きこんだに違ひない。(略)自然は人をつくる。この霊峰の此の偉容に毎日毎朝接してゐる上高下の部落は幸である。井上くまさんその人には素よりだが、此部落全体としての雰囲気に感動したといふ事を私は強調したい。(略)その富士山の美を斯くばかり身に浴びてゐる上高下の部落に「日本の母」井上くまさんの居るのは自然である。

さらに、こちらも以前にもご紹介しましたが、昭和18年(1943)に刊行されたアンソロジー『国民詩選』(題字揮毫も光太郎)のために、光太郎は「山道のをばさん」という詩も書き下ろしています。


   山道のをばさん
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 汽車にのり乗合にのり馬にのり、
 谷を渡り峠を越えて又坂をのぼり、
 甲州南巨摩郡の山の上、
 上高下(かみたかおり)といふ小部落の
 通称山道(やまみち)のをばさんを私は訪ねた。
 「日本の母」といふいかめしい名に似もやらず
 をばさんはほんとにただのをばさんだつた。
 「遠いとこ、さがしいとこへよくお出でしいして」と、

 筒つぽのをばさんは頭をさげた。
 何も変つたところの無い、あたり前な、
 ただ曲つた事の何より嫌ひな、
 吾身をかまはぬ、
 働いて働いて働きぬいて、
 貧にもめげず、
 不幸を不幸と思ひもかけず、
 むすこ二人を立派に育てて、
 辛くも育て上げた二人を戦地に送り、
 一人を靖國の神と捧げて

 なほ敢然とお国の為にと骨身を惜しまぬ、
 このただのをばさんこそ
 千萬の母の中の母であらう。
 あけつ放しなをばさんはいそいそと、004
 死んだむすこの遺品(かたみ)をひろげて
 手帳やナイフやビールの栓ぬきを
 余念もなくいじつてゐる。
 村中の人気がひとりでにをばさんに集まり、
 をばさんはひとりでに日本の母と人によばれる。
 よばれるをばさんもさうだが
 よぶ人々もありがたい。
 いちばん低い者こそいちばん高い。
 をばさんは何にも知らずにただうごく。
 お国一途にだた動く。
 「心意気だけあがつてくらんしよ」と、
 山道のをばさんはうどんを出す。
 ふりむくと軒一ぱいの秋空に、
 びつくりする程大きな富士山が雪をかぶつて
 轟くやうに眉にせまる。
 この富士山を毎日見てゐる上高下の小部落に
 「日本の母」が居るのはあたりまへだ。


手放しの誉めようですが、実際にこの地に行くと、大げさではないことが実感されます。ぜひ足をお運びください。

明日は甲信レポート最終回、市川三郷町の四尾連湖です。


【折々のことば・光太郎】

床の間の傍に米櫃が置いてあつても気にならない位の人は珍らしくもありません。全然、趣味などといふ事は眼中になく、物を見て気にならない代りに面白いと思ふ事もないのであります。そして、金剛砂の様なザラザラした一生を、口小言を言ひながら送つて行く人であります。此種の人は僕等にとつては縁なき衆生であります。

散文「室内装飾に就いて」 治44年(1911) 光太郎29歳

たしかにこういう生活でなく、「うつくしきものみつ」という心持ちで日々を送りたいものですね。