12/3(日)、前夜行われた美術講座「ストーブを囲んで 荻原守衛と高村光太郎の交友」のため宿泊した信州安曇野をあとに、愛車を南東方向に向けました。夕方までに山梨県内の光太郎ゆかりの施設、場所を三ヶ所廻る予定です。

まずは中央高速を長坂ICで下り、清春白樺美術館さんへ。

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こちらは昭和58年(1983)の開館。かつて光太郎を含む白樺派の面々が構想しながら果たせなかった悲願、白樺派の美術館を実現しようと建てられたものです。他の複数の施設と共に「清春芸術村」を形作っています。

芸術村の駐車場付近から撮った、南アルプスと富士山。

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受付のすぐ前には、再現されたラ・リューシュ。エッフェル塔の設計者、エッフェルが明治33年(1900)のパリ万博のパビリオンとして作り、その後、モンパルナスに移築されてシャガールらがアトリエとしていた建物です。おそらく光太郎も眼にしています。本物はパリにありますが、それがこの地に再現されていて、現代アート作家さんたちが実際にアトリエとして居住しています。

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002白樺美術館。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦像(通称・乙女の像)」を含む一帯の公園の設計を手がけた建築家・谷口吉郎の子息で、やはり建築家の谷口吉生氏の設計です。不思議な縁を感じます。

正面玄関脇には、光太郎と交流の深かった彫刻家・高田博厚の作品がお出迎え。

こちらには、光太郎のブロンズや、3点しか現存が確認されていない智恵子の油絵のうちの一つ、「樟」が所蔵されており、見ておこうと思った次第です。

公式サイトがしばらく更新されていないようで、現地に着くまで存じませんでしたが、「白樺派の情熱展 志賀直哉コレクションを中心としてⅣ」が9月から開催されていました。

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上記は出品目録。光太郎の「裸婦坐像」(大正6年=1917)が掲載されていますが、それ以外にも「大倉喜八郎の首」(大正15年=1926)、さらに画商の後藤真太郎にあてた長い書簡(昭和6年=1931)が展示されていました。木彫小品を販売する仲介を頼むもので、光太郎は月々200円ずつ受け取り、代わりに毎月1点ずつ木彫小品を納めるという契約を、後藤の顧客の誰かと結びたいので紹介して欲しい、的な。しかしこの目論見は、智恵子の心の病の昂進により、実現しませんでした。この書簡は筑摩書房『高村光太郎全集』に掲載されています。

他に、白樺派やその周辺で、光太郎と縁の深かったさまざまな人物の作品が見られ、眼福でした。しかし残念ながら、智恵子の「樟」は展示されていませんでした。訊いてみましたところ、どこかに貸し出しているというわけでもないそうですが、当分、展示の予定もないとのことです。昨年、碌山美術館さんで開催された「夏季特別企画展 高村光太郎没後60年・高村智恵子生誕130年記念 高村光太郎 彫刻と詩 展 彫刻のいのちは詩魂にあり」の際に拝見しておいて良かったと思いました。

常設展示では、やはりこちらの目玉であるルオーの作品が中心でした。それからロダン。「洗礼者ヨハネ」の原型として作られた「歩く男」、光太郎が書き下ろした評伝『ロダン』(昭和2年=1927)の中で特に一章を割き、実際に岐阜まで会いに行ってロダンのモデルを務めた話を聞いた日本人女優・花子の像など。


白樺美術館を出て、右の方に。ジョルジュ・ルオー記念館(礼拝堂)です。

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光太郎は、ルオーをして、このように評しています。

ルオーの絵画を人はいいと言ふ。何処をいいとするのだらう。其は宗教的であるとか、精霊的であるとか、いろいろに言はれる。モロオの別格的延長とさへ言はれる。さういふところに彼の絵の力があるのであらうか。さういふ事は皆彼の画の性質に過ぎない。事実は、ルオーの絵の画面全体から来る物理的充実感がルオーの根本なのである。あの一ぱいに孕んだ帆のやうな大どかな力である。(「仏画賛」昭和14年=1939)


梅原龍三郎アトリエ。中には入れませんでした。

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梅原と光太郎の交流は、かなり長期間にわたりました。明治42年(1909)、パリから帰国する光太郎は、モンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地のアトリエの貸借権を梅原に譲りました。さらに、昭和31年(1956)の光太郎葬儀では、梅原が弔辞を読んでいます。その頃、梅原が使っていたアトリエというわけです。しかし、光太郎から梅原宛の書簡は現存が確認出来ていません。今後に期待したいところです。

ちなみに説明板にある吉田五十八。光太郎も訪れた熱海に現存する岩波茂雄の別荘「惜櫟荘」の設計も手がけています。

まったく、人の縁というのは不思議なものだと感じさせられました。


この後、再び中央高速に乗り、双葉ジャンクションから中部横断自動車道に入って増穂ICで下りました。次なる目的地は南巨摩郡富士川町。長くなりましたので、また明日。


【折々のことば・光太郎】

量が力ではない。量の震動が力である。

散文「黏土と画布」より 明治44年(1911) 光太郎29歳

大きさそのものが巨大な作品、「偉大」とか「広壮」とかいう感覚を表現しようと狙った作品に対する警句です。このあとの部分では、ルネサンス期の幅23㍍もある巨大な油絵を例に、それよりも「片手で提られる程の大きさの「モナ リザ」の方が恐ろしい力を有つてゐる」としています。