昨日も都内に出ておりました。都内に出る時は大概そうで、複数の用件を済ませて参りましたが、メインの目的は、日比谷で開催された「第11回 明星研究会 <シンポジウム> 口語自由詩の衝撃と「明星」~晶子・杢太郎・白秋・朔太郎・光太郎」の拝聴でした。

会場は、日比谷公園内の千代田区立日比谷図書文化館さん。

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当会主催の連翹忌会場、日比谷松本楼さんのすぐそばですし、隣接する日比谷公会堂(現在は休館中)は、かつて光太郎がコンサートにも足を運んだ場所です。

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内容的には二部構成で、前半が講演「『みだれ髪』を超えて~晶子と口語自由詩 女性・子供・社会」。講師の歌人・松平盟子氏は、今年6月に開催された現代歌人協会さんの公開講座「高村光太郎の短歌」の際にパネリストを務められ、その際に知遇を得まして、お声がけ下さいました。

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晶子の詩というと、明治44年(1911)、智恵子がその表紙絵を描いた『青鞜』創刊号に寄せた「そぞろごと」(「山の動く日きたる」などを含む)や、大町桂月に「非国民」と誹られた「君死に給ふことなかれ」(明治37年=1904)が有名ですが、他にも多くの詩を書いていたそうです(当方、これは存じませんでした)。確認されている最初の詩は明治32年(1899)の『よしあし草』に載った「春月」。その後、第一次『明星』廃刊の明治41年(1908)まで、同誌に「君死に給ふことなかれ」を含む多くの詩を発表していますし、亡くなる2年前の昭和15年(1940)、『冬柏』に寄せた「死」に至るまで、その詩は全集2冊分にもわたるほどでした。特に大正期にその発表が多かったそうです。

その詩型は文語定型詩に始まり、文語自由詩、口語定型005詩、そして口語自由詩へと発展、すると、その軛(くびき)のないスタイルが伸びやかな発想をもたらし、一気に花開いたとのこと。この点、光太郎を含む他の詩人達のあゆみと軌を一にします。

松平氏のご指摘では、『スバル』誌上などに次々発表された光太郎詩の影響も見て取れるとのこと。

下記は晶子の「或国」(明治45年=1912)という詩です。

   或国

 堅苦しく うはべの律儀のみを喜ぶ国、
 しかも かるはずみなる移り気の国、
 支那人ほどの根気なくて、 浅く利己主義なる国、
 亜米利加の富なくて、 亜米利加化する国、
 疑惑と戦慄を感ぜざる国、
 男みな背を屈めて宿命論者となりゆく国、
 めでたく うら安く 万々歳の国。

たしかに光太郎の「根付の国」(明治44年=1911)と似ています。
 
  根付の国

 頬骨が出て、唇が厚くて、眼が三角で、名人三五郎の彫つた根付(ねつけ)の様な顔をして
 魂をぬかれた様にぽかんとして
 自分を知らない、こせこせした
 命のやすい
 見栄坊な
 小さく固まつて、納まり返つた
 猿の様な、狐の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、
  鬼瓦の様な、茶碗のかけ
らの様な日本人

日露戦争後の閉塞感やら、自然主義の勃興やら、『青鞜』に代表される女性の進出やらの文壇全体の流れの中で晶子の詩も多様な側面を見せ、ご講演のサブタイトルにもある「女性・子供・社会」そして自然美などへ眼差しが注がれて行ったとのこと。

ところで、「君死に給ふことなかれ」を痛烈に批判した大町桂月。光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」(昭和28年=1953)は、十和田湖の国立公園指定に功績のあった大町桂月ら三氏を讃えるというのが基本コンセプトでした。その件に絡み、光太郎は以下の発言をしています。

僕は若い頃大町さんに怒鳴られたりなんかして、よく知つてゐるんだから、貴様こんなものを立てたといつて怒られるだらうといふ事が、頭に出て来て、それでどうも弱つたんです。
(座談「自然の中の芸術」 昭和29年=1954)

どういうシチュエーションで桂月が光太郎を怒鳴ったのかは不明ですが、桂月にしてみれば、光太郎は「非国民」与謝野晶子の弟分、という感覚があったのかも知れません。

休憩を挟み、後半は口語自由詩の確立に功績のあった四人の詩人についてのご発表。年齢順に(講師の、ではなく詩人の、です)松平氏が光太郎、静岡県立大学教授・細川光洋氏で北原白秋、木下杢太郎を歌人にして東京大学教授の坂井修一氏、そしてやはり歌人の前田宏氏による萩原朔太郎。限られた時間での、それぞれのアウトライン的なものではありましたが、興味深く拝聴しました。

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聴きながら思ったのですが、晶子を含めた5人のうち、光太郎を除く4人は意外と早く亡くなり(晶子・白秋・朔太郎は昭和17年=1942、杢太郎は同20年=1945)、光太郎のみ「生きながらえた」感があります。戦時中の翼賛詩の
部分を考えると、重要な要素を含むように思われました。

閉会のご挨拶は、『明星』に拠った歌人、平出修の令孫・平出洸氏。おじいさまは弁護士資格も持ち、幸徳秋水や管野スガなどのいわゆる「大逆事件」の弁護も務めました。光太郎は大正3年(1914)に若くして亡くなった平出の追悼会に出席し、詩「瀕死の人に与ふ」で平出に触れています。

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閉会後、有楽町駅近くのドイツ料理の酒場的なお店で懇親会。

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与謝野夫妻研究の第一人者・逸見久美先生もご出席。隣に座らせていただきました。逸見先生は連翹忌ご常連で、一昨年にはNHKさんの生涯教育番組「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門」の与謝野晶子の回にご出演、その際に光太郎の回のためにNHKさんにご紹介下さり、当方、番組制作のお手伝いをさせていただきました。

平出氏や、鉄幹晶子関連などのさまざまな活動をなさっている皆さんとお話しをさせていただき、非情に有意義な時間でした。いつものように連翹忌の「営業」もしておきましたので、これでまた人の輪が広がることを期待いたします。


【折々のことば・光太郎】

どんな気儘をしても、僕等が死ねば、跡に日本人でなければ出来ぬ作品しか残りは為ないのである。

散文「緑色の太陽」より 明治43年(1910) 光太郎28歳

昨日に引き続き、日本に於ける初の印象派宣言とも言われ、あまりにも有名な評論から。

元々、この「緑色の太陽」は、絵画に於いて、日本固有の色彩(ローカルカラー)を重視すべしという、画家・石井柏亭への反駁が動機となって書かれたものでした。これ以前に石井は、日本の風景にはあり得ない色彩を使う新興の絵画に対し、警句を発表していました。それを受けて光太郎は、そんなものは作家個人の自由、ことさらに日本などというものを意識する必要はない、所詮、日本人には日本人しか描けないものしか描けない、と論じたのです。