一昨日の『福島民友』さんの記事から。
智恵子ゆかりの地へようこそ 福島・二本松、ガイドボード除幕
福島県二本松市出身の高村智恵子と夫・光太郎の世界観を学び、功績を顕彰している「智恵子のまち夢くらぶ」(熊谷健一代表)は、同市油井の智恵子の生家(旧長沼酒造店跡)近くに智恵子ゆかりの地などを案内する「智恵子のまちガイドボード」を設置した。 智恵子純愛通り記念碑前に掲げられたガイドボードは縦2.25メートル、横2.7メートル。
同生家をはじめ「樹下の二人」詩碑、長沼家墓所の満福寺、母校の油井小など18カ所を示した。
市の「市民との協働による地域づくり支援事業」を活用して整備した。
12日までに行われた除幕式では、熊谷代表が「訪れる人たちの役に立つことができればうれしい」とあいさつ。新野洋市長や小泉裕明市教育長、服部光治あだち観光協会長らと共にガイドボードを除幕した。

場所は、智恵子生家・智恵子記念館と、その駐車場の間。故・髙村規氏の揮毫による「智恵子純愛通り」碑(上の画像の右端に写っています)のある小さな緑地です。こちらでは、この碑の建立祭などの催しが開かれたりもしています。
元々は、智恵子のまち夢くらぶさんの編集、A3判二つ折りのカラー印刷で平成26年(2014)に無料配布された「智恵子のまちガイドマップ」。全4ページの1ページめが、今回ボードに拡大された地図。智恵子が居た当時から残っている建造物や石碑、何も無くなってしまっているものの、「ここだよ」という場所がピックアップされています。

残り3ページが二段組みで地図中の各ポイントの説明になっています。






この辺りを訪れる皆さん、智恵子生家と記念館を見て終わり、という方も結構いらっしゃるように感じています。少し日程に余裕を持たせ、この地図を元に周囲を歩くことをおすすめします。智恵子と関係のないところでも、「古き良き日本の原風景」的な景観が随所に残っています。
【折々のことば・光太郎】
いさぎよい非情の金属が青くさびて 地上に割れてくづれるまで この原始林の圧力に堪へて 立つなら幾千年でも黙つて立つてろ。
詩「十和田湖畔の裸像に与ふ」より 昭和28年(1953) 光太郎71歳
彫刻家光太郎の最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」に寄せた詩の終末部分です。

こちらは昔のテレホンカード。現地ではそろそろこういう情景になるでしょう。
この像は、戦後すぐの頃から光太郎が構想を抱いていた「智恵子観音」の具現化という意味合いもありました。
智恵子の顔とからだを持った観音像を一ぺんこしらえてみたいと思っています。仏教的信仰がないからおがむものではないが、美と道徳の寓話としてあつかうつもりです。ほとんどはだかの原始的な観音像になるでしょう。できあがったら、あれの療養していた片貝の町(九十九里)におきたいと考えています。
(昭和25年=1950 神崎清との対談「自然と芸術」)
(昭和25年=1950 神崎清との対談「自然と芸術」)
戦時中の戦争協力を悔い、自らに課した「彫刻封印」の厳罰。それを解く際に作る彫刻は、自らの彫刻家人生の集大成ともいえる、「美」の象徴たるものでなければと考えていたはずです。そうした彫刻を作るとなると、それはどうしても智恵子の姿にならざるを得ませんでした。
たしかにおれは十和田の宿屋での晩。智恵子の裸かをつくろうと決めた。
(略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子が
そんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
(略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。
(略)
湖の。あの一種の絶景を見て。
あの絶景のなかへなら女の裸をつくりたいと。
それはほんとうにそう思つた。
そしてその晩。
自分の部屋へもどつてきて。電気を消して。
独り寝つかれずにじつとしていたとき。智恵子はおれにささやいた。
この湖のほとりなら。あたくしをつくつて下さい。
そんなささやきをきいた思いをおれがして。いや。おれがきつぱり決めたので智恵子が
そんな気持ちになつたのかもしれなかつた。
(略)
あの十八のモデルのからだを媒体にしておれは智恵子の精神をつくる。
精神は肉体であるその実在を。
かたちにする。
そうした光太郎の思いを代弁した草野心平の詩「高村光太郎」の一節です。
もっとも、光太郎自身は、昭和28年(1953)10月23日(「乙女の像」序幕の2日後)、青森市野脇中学校で開催された文芸講演会の席上、心平がこの詩を朗読したことに対し、
先ほど朗読された草野君の詩『高村光太郎』について、ちよつといつておきたい。十和田の記念像の裸婦は智恵子を偲んで、こさえたように草野君の詩にあるが、必ずしもそうではない。もちろん何かが契機になつていることは確かでしよう。いや、そういうもののない芸術はあり得ないことで、もしそういうもののない芸術があるとすれば、それは公式的なものであつて弱い。そういう意味で私の作つた記念像に何かの契機があつたことは認めるが、あれは草野君のような『詩人バカ』が(笑)誇張していつてるんですヨ。
と、流しています。
しかし、これは「乙女の像」が国立公園指定15周年の記念モニュメントという公的な依頼だったことに起因する、表向きの発言でしょう。
心平以外にも周辺の複数の人物が、いろいろと証言しています。
東京のアトリエのことなどを相談しているうちに、「智恵子を作ろう」と、ひとりごとのように高村さんはいわれた。それはこんどの彫刻に対する作者自身の作意を洩されたものであつたが、高村さんはその言葉のあとで、そんな個人的な作意を十和田湖のモニユマンに含ませることは、計画者の青森県にすまないような気がすると、そんな意味の言葉を申し添えられたのである。
(谷口吉郎「十和田記念像由来」 『文芸』臨時増刊号 昭和31年=1956)
製作にかかる前、
「智恵子さんの写真もなにも戦災でなくしたのに、どうやってその何十年も前に見た顔をつくるんですか」ときくと、高村さんは、
「この手に智恵子のかたちがのこってるんですよ。」
と、あの子供の頃から彫刻できたえ上げた大きな両手で、空間に形を示しながら答えていました。
(藤島宇内「逝ける詩人高村光太郎」 『新女苑』第二十巻第六号 昭和31年=1956)
さて、この項冒頭の詩句。これについては、やはり光太郎と交流の深かった伊藤信吉が、こんな事を書いています。
詩と彫刻の両面から、愛と追慕の思いを最終的に表現したとき、光太郎はすでに死を予感したかもしれない。ほろびるのは自分の肉体であり、残るのは愛の造型とその詩だからである。投げつけるようなこの言葉は哀惜の反語である。同時に生涯の愛の表現を完了したことの嘆息である。
(伊藤信吉 「湖畔の乙女像 十和田―高村光太郎」
『詩のふるさと』 新潮社 昭和43年=1968)
『詩のふるさと』 新潮社 昭和43年=1968)
「生涯の愛の表現の完了」。たしかに、間接的にではありますが、智恵子に関わる詩としては、これが絶筆となりました。