昨日は都内2ヶ所を廻っておりました。
まずは品川区大井町の、ジオラマ作家・石井彰英氏の工房。昨年、いにしえの大井町のジオラマを作られ、智恵子終焉の地・南品川ゼームス坂病院も組み込んで下さった関係で、花巻高村光太郎記念館さんにご紹介、来年の同館企画展示で展示するために光太郎が暮らしていた当時の花巻町・郊外太田村などのジオラマをお願いすることになりました。9月には氏を現地にご案内、早速、制作にかかっていただいていました。
7月に一度お邪魔し、2度目の訪問となりましたが、進捗状況を見て欲しいというのと、お手伝いなさっているスタッフさんや、ジオラマ制作の模様を取材なさっているケーブルテレビ品川さんに当方をご紹介下さるとのことで、お伺いしました。
畳一畳ほどの大きとなり、パーツとしての建造物類はほぼ完成。光太郎がよく利用していた花巻電鉄も走っていました。

あとは、ここに山や川などを作り、樹木を配し、田んぼやリンゴ畑などを作っていただく形です。






さらにジオラマ本体だけでなく、拡大して撮影した動画を収めるDVDを作られるとのことで、そのナレーションや音楽を担当される方にもお引き合わせいただきました。
当方も今後も色々関わることになっており、この件につきましては、また追ってレポートいたします。
その後、東急線をのりつぎ、世田谷区用賀へ。過日ご紹介しました、上用賀アートホールさんで開催の「真理パフェFourth」という公演を拝見して参りました。


邦楽・日本舞踊系の大川真理さんという方を中心とした催しで、ご本人の他、ご家族やお仲間、お弟子さんなどがご出演。ジャンル的にも幅広いものでした。その幅広さゆえに、「てんこ盛りのパフェ状態」という意味で「パフェ」と名付けているそうです。
ちなみに大川さん、当方もお世話になっております一色采子さんと同じ芸能事務所のご所属でしたので、ちょっと驚きました。


なぜこれを聴きに行ったかと言いますと、「智恵子抄」の朗読が入っていたためで、石川弘子さんという方が、「あどけない話」、「人に」、「千鳥と遊ぶ智恵子」の三篇を朗読されました。当方、石川さんのブログでこの催しを知り、行ってみようと思った次第です。
3篇だけで、あまり長い時間ではありませんでしたが、しみじみとしたいい朗読でした。最後の「千鳥と遊ぶ智恵子」では、潮騒の効果音が流れ、目を閉じると智恵子の療養していた九十九里浜の風景が浮かびました。

主宰の大川さんはじめ、出演者の皆さんには日本女子大さんの関係者が多かったこともあって、「智恵子抄」が演目に入っていたようです。同校の卒業生である智恵子に関わる「智恵子抄」は同校の関係者にはなじみ深いもの、とパンフレットに記載がありました。そういわれてみれば、「智恵子抄」にオリジナルの曲をつけて歌われているモンデンモモさんも同校附属高から芸大さんに進まれたのでした。
プログラムの最後は、同校附属中高卒業生の皆さんを中心とした演奏。
邦楽の「越後獅子」に、ピアノと三味線の伴奏で合唱をつけてのアレンジ。面白い試みですね。

ヘンデルの「メサイア」。大川さんは鼓を打ちながら歌われていました。

客席では、やはり関係者の方でしょう、立って歌われている皆さんも多数いらっしゃいました。愛校心というか、ともに青春を過ごした思い出というか、そういう絆の深さを感じました。
ちなみにうちの娘。もう大学を出て働いていますが、大学受験の際には日本女子大さんにも合格しました。ただ、結局は別の大学に進み、智恵子の後輩にはなりませんでした。当方としては、ちょっと残念でした(笑)。
終演後、石川さんには、例によって連翹忌の「営業」をかけておきました。このような形でも輪を広げて来ており、ぜひとも加わっていただきたいものです。
【折々のことば・光太郎】
囲炉裏の上で餅を焼いているこの小屋が、 日本島の土台ぐるみ、 今にも四十五度に傾きさうな新年だが、 あの船の沈まなかつた経験を 私はもう一度はつきりと度思ひ出す。
詩「船沈まず」より 昭和25年(1950) 光太郎68歳
翌年の『中部日本新聞』他の元日号に掲載された詩です。遠く明治39年(1906)、欧米留学のため横浜を出航して太平洋を渡った経験を下敷きにしています。暴風雨の連続で、乗っていたカナダ太平洋汽船の貨客船アセニアン号が45度傾くくらいだったそうです。
下って平成30年も、「日本島の土台ぐるみ、 今にも四十五度に傾きさうな」気がしてなりません。それでも沈まないことを祈ります。