今月1日(ついたち)の日曜日に開催された「第23回レモン忌」に引き続き、昨日はまたまた智恵子の故郷・福島二本松に行っておりました。現在、二本松市各所で展開中の「重陽の芸術祭2017」の一環として、智恵子の生家を会場に、女優の一色采子さんらによる「智恵子抄」朗読とダンスのパフォーマンス「智恵子・レモン忌 あいのうた」が行われ、そちらを拝見。

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一色さんは本名・大山采子さん。お父様は二本松ご出身で、文化勲章を受章された故・大山忠作画伯。同郷の智恵子をモチーフにした作品も数多く、その関係で采子さんとも知遇を得まして、連翹忌にもご参加いただいております。

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1日(日)のレモン忌にご欠席でしたので、どうされたのかと思っておりましたところ、全国23ヶ所で公演された「松竹特別公演 妖麗 牡丹燈籠」の千秋楽だったそうでした。そちらの東京公演のご案内も頂いていたのですが欠礼したので、今回はその埋め合わせという部分もあって参上しました。

午後6時開演ですが、4時半頃に着きました。正式な開場の5時半より前にどさくさに紛れて潜り込み、リハーサルから観ようという魂胆です(笑)。

早速、采子さん発見。すてきなお召し物です。

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持参した花束とレモンをお渡ししました。

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さて、リハーサル。

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渕上千里氏の電子ピアノによる、サティやドビュッシー、ラヴェルなどに合わせ、采子さんの「智恵子抄」朗読。

千葉の当方自宅兼事務所に帰ってきてから気づいたのですが、淵上氏、故・平吉毅州氏作曲の混声合唱組曲「レモン哀歌」CD(平成11年=1999 フォンテック)に、ピアノで参加されていました。合唱は平松混声合唱団さん。当方、CDを持っております。

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演奏を聴いて、「あっ、このタッチは、平吉さんの『レモン哀歌』の……」と気づいたのなら、当方もすごい耳の持ち主ということになりましょうが、そうでないところが凡人の悲しさです(笑)。

本番が撮影禁止だったので(シャッター音やストロボの光が録音、録画に影響するためだそうで)、以下、リハの写真です。そこまで予想して、早のりしたわけではないのですが(これも凡人の悲しさです(笑))、リハ中にたくさん撮っておいて助かりました。

感想は本番を含めて書かせていただきます。采子さんの朗読は、非常に凜としたお声で、一言で言うと「かっこいい」読み方。例えるなら宝塚の男役のような。また、間の取り方が実に絶妙でした。詩は5篇。「人に」「あどけない話」「樹下の二人」「レモン哀歌」「千鳥と遊ぶ智恵子」。

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その後、福島ご出身のダンサー・二瓶野枝さんによるモダンダンス。

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幽妙というか、玄妙というか、深淵というか、幻想的というか、神秘的というか、ボキャブラリーが貧困で申し訳ありませんが、生演奏でなく、コンピュータを使っての音楽とダンスの動きがよくマッチし、智恵子の生涯におけるさまざまな挑戦、希望、しかしいろいろな面でうまくいかない苦悩、失意、それに負けまいとあらがう姿、結局は刀折れ矢尽きた絶望、そしてその生涯の終焉といったもろもろが、情念たっぷりに表現されていました。

観客の皆さんも、朗読、ダンス、それぞれの世界に引き込まれていました。

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通常のホールなどではなく、宵闇に包まれた、明治16年(1883)建造の智恵子の生家という舞台設定がまた良かったと思いました。これが昼間では、また感じが出なかったでしょう。

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カーテンコール的な。

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終演後の関係者の皆さん。

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昨年は地元の方による琴と尺八の演奏が行われ、今年は朗読とダンス。何でもありというわけではないでしょうが、生家の活用がなされるのは良いことだと思われます。ぜひここで演じてみたいというパフォーマーの皆さん、市教委あたりに問い合わせてみて下さい。

007終演後の舞台挨拶で初めて知りましたが、二瓶さん、三ヶ月前にお子さんを出産されたばかりだそうでした。そうとは思えない見事に鍛え上げられた体型(愚妻との相違が……(笑))には舌を巻きました。

ところで、リハの時から赤ちゃんがいるな、と不思議に思っていたら、それが二瓶さんのお子さんでした。何と、名付けて「コータロー」君だそうで。ちょうどこのイベントにかかっていた時だったため、「光太郎」ではなく「郎」のみ変えて「光太朗」と名付けたとのこと。光太郎の悪いところは真似をせず(笑)、頑健な身体などのよいところはあやかってもらい、すくすくと育ってほしいものです。

ちなみに昨日は、十六夜(いざよい)の月でした。

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昭和13年(1938)10月5日、智恵子が歿し、8日には駒込林町のアトリエで、葬儀が行われました。後にそれを回想して謳われたのが、「荒涼たる帰宅」(昭和16年=1941)。

  荒涼たる帰宅000
 
 あんなに帰りたがつてゐた自分の内へ
 智恵子は死んでかへつて来た。
 十月の深夜のがらんどうなアトリエの
 小さな隅の埃を払つてきれいに浄め、
 私は智恵子をそつと置く。
 この一個の動かない人体の前に
 私はいつまでも立ちつくす。
 人は屏風をさかさにする。
 人は燭をともし香をたく。
 人は智恵子に化粧する。
 さうして事がひとりでに運ぶ。
 夜が明けたり日がくれたりして
 そこら中がにぎやかになり、
 家の中は花にうづまり、
 何処かの葬式のやうになり、
 いつのまにか智恵子が居なくなる。
 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。
 外は名月といふ月夜らしい。

この年は、この葬儀の日が十五夜だったのですね。

昨日はまさしく智恵子の命日「レモンの日」「レモン忌」というわけで、花を添えていただいたように思います。

おまけ。
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帰りがけに赤信号に引っかかったら、横から出てきました。

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かつて智恵子も観たであろう、300年以上続く、二本松の「提灯まつり」です。

【折々のことば・光太郎】

さうして祈らう。 世界に戦争の来ませんやうに、 天変地異の起きませんやうに、 われら一人一人が人間でありますやうに、 一人一人が天のかけらを持ち得ますやうにと。

詩「新年」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

翌年元旦の『朝日新聞』のために書かれた詩です。同じく新年を謳うにしても、戦時中は米英覆滅のプロパガンダ的なものでしたが、花巻郊外太田村の山小屋での蟄居生活も4年目となり、たどりついた境地がこれです。