一昨日、昨日と、智恵子の故郷・二本松ネタが続きましたが、もう1件。智恵子の顕彰に当たられている「智恵子のまち夢くらぶ」さん主催の市民講座です。

『広報にほんまつ』さんから。

智恵子講座2017

 『わたしの一生はわたしが決める。たった一度きりの人生ですもの』と高らかにうたった高村智恵子。今年の講座は、昨年亡くなられた二本松の児童文学者・故金田和枝さんの著書(智恵子と光太郎)を熟読します。

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募集定員 25人

参加費   3000円(本代と昼食代と文集代含む)
そ の他
 この講座では、『智恵子と光太郎』の朗読を聞いてみたいという小・中学生および高校生を募集しています。定員は20人で参加費は無料です。詳しくは下記へお問い合わせください。


◎問い合わせ・申し込み… 智恵子のまち夢くらぶ事務局☎0243・23・6743


例年、講師を招いて講義型の講座として行われている同講座(当方も何度か講師を務めさせていただきました)ですが、今年は新たな試みのようです。案内にあるとおり、昨年暮れに逝去され、二本松ご在住だった児童文学者・金田和枝さんの御著書『智恵子と光太郎 たぐいなき二つの魂の出会い』(歴史春秋社 昭和61年=1986)を読み込む、というものだそうです。

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上記は一昨年の、智恵子を偲ぶ001第21回レモン忌」。この時は、金田さんが記念講演の講師をなさっていました。当方、金田さんにお会いしたのは、これが最後となってしまいました。

『智恵子と光太郎 たぐいなき二つの魂の出会い』は、ジュブナイルとして書き下ろされたもので、智恵子の二本松での幼少期から、長じての福島高等女学校、日本女子大学校での生活、太平洋画会で油絵を学び、『青鞜』の表紙を描いたこと、光太郎との出会い、結婚、心の病の発症、そして死と、平易な言葉遣いで、しかし、年少読者に阿(おもね)ることなく、しっかりと智恵子像を描き出しています。

エピローグ的な部分では、智恵子歿後の光太郎……戦争で東京を焼け出されて移り住んだ花巻郊外太田村の山小屋裏手の「智恵子展望台」から夜空に向かって智恵子の名を叫ぶ姿、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」として、智恵子像を遺したことなども語られています。

「あとがき」から。

 人間ひとりの一生は、実にかけがえのないすばらしいものです。
 「たった一度の人生だから」と、ひたむきに生きぬいた智恵子でした。安達太良山の上にひろがる空を本当の空であると言い、澄みきった空気のように浄化された「美」の世界で智恵子ののこしていったものは、今もなお私たちに何かを語りかけてくれているのです。

そのとおりですね。


お近くの方、ぜひお申し込み下さい。


【折々のことば・光太郎】

雪女出ろ。 この彫刻家をとつて食へ。 とつて食ふ時この雪原で舞をまへ。 その時彫刻家は雪でつくる。 汝のしなやかな胴体を。 その弾力ある二つの隆起と、 その陰影ある陥没と、 その背面の平滑地帯と膨満部とを。
詩「人体飢餓」より 昭和23年(1948) 光太郎66歳

自らの戦争責任を処罰するため、花巻郊外旧太田村で自虐に等しい山小屋生活に入った光太郎ですが、それだけでなく、天職と考えていた彫刻を封印するという、およそ考え得る限りの厳罰を自らに科しました。

手すさびに、送られてきた彫刻材で蝉を彫ったり、粗悪な畑土で塑像――ともいえない程度のもの――を作ったりということはありましたが、「作品」と呼べるものは、太田村時代の7年間で一つも遺しませんでした。

転機となったのは、青森県から十和田湖畔に国立公園指定功労者顕彰のためのモニュメント制作を依頼された昭和27年(1952)。これが「乙女の像」として昇華してゆきますが、まだ先の話です。

「彫刻封印」というあまりに過酷な罰は、光太郎をして雪女の姿を雪で作るという夢想さえ見せしめたのです。