先週の金・土と、1泊2日で岩手花巻を訪れておりました。郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)に隣接する花巻高村光太郎記念館さんで、金曜から始まった「秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界」を拝見し、さらにその前後、光太郎ゆかりの場所をいろいろと廻りました。

高村光太郎記念館さんの企画展で、光太郎が彼の地に暮らしていた頃よく利用していた花巻電鉄にスポットをあてた展示も視野に入れている、という話が以前にあり、それなら智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成されたジオラマ作家の石井彰英氏に、ジオラマを作成していただいてはどうかと思いついて、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。石井氏がぜひ現地のロケハンを、ということなので、ご案内した次第です。石井氏の息子さんも助手として同行されました。

石井氏、試作品をお持ちくださいました。

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右が花巻電鉄の車両、左の方は大八車やリヤカーです。

光太郎が暮らしていた頃の花巻町とその周辺を、畳一畳分くらいに再現、そこに廃線となった花巻電鉄を走らせるというコンセプト。そこで、光太郎ゆかりの建造物などが残っている場所をレンタカーで廻りました。

光太郎が暮らした太田地区にある「新農村地域定住交流会館・むらの家」。直接の関わりはありませんが、当時の農家建築の例として。

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光太郎が暮らした山小屋(高村山荘)。

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花巻電鉄が二系統あったうちの片方の終点、市街北西部の花巻温泉。

元の駅の跡。

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線路跡はサイクリングロードとなり、それとわかるように残っています。右下は初代花巻電鉄社長・金田一国士の顕彰碑。光太郎の詩「金田一国士頌」が刻まれています。

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光太郎がたびたび泊まった旧松雲閣別館。

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宮沢賢治が設計した花壇。復元されたものですが、オリジナルは光太郎が眼にしているはずです。

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続いて、一山越えて、花巻電鉄のもう一方の系統が走っていた、花巻南温泉郷。


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右上の画像、三階の一番左の部屋に、光太郎が泊まりました。有名な深い岩風呂「白猿の湯」も堪能しています。

そして、その日の宿、大沢温泉さん。こちらも光太郎御用達です(笑)。当方もですが(笑)。

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翌日は、市街地方面へ。

光太郎が山小屋からの行き帰りによく使った二ツ堰駅跡。最寄り駅は神明駅でしたが、二ツ堰駅は単線の交換駅で、市街から二ツ堰駅止まりの列車もあり、主にここで乗降していました。ここから山小屋まで徒歩1時間強です。

向かい側には光太郎が立ち寄った遊坐商店の建物があります。


花巻駅西口近くの材木町公園。移築された旧花巻町役場と、静態保存されている花巻電鉄の車両。

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市街の鳥谷ヶ崎神社さん。光太郎は終戦の玉音放送をここで聴きました。

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光太郎が父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法事をやってもらっていた松庵寺さん。今も毎年4月2日に花巻としての連翹忌法要を営んで下さっています。

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光太郎が碑文を揮毫した桜町の賢治詩碑。昨年の今頃、この碑の前でお話しをさせていただきました。今年も賢治祭に向け、周辺の草刈りなどが行われていました。

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すぐ近くの桜地人館さんにも立ち寄りました。

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やはり近くの佐藤隆房邸。旧太田村の山小屋に移る前、1ヶ月ほど光太郎が暮らしていました。

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最後に、元々は賢治詩碑のあった場所に建っていた、羅須地人協会。宮沢家の別荘だった建物です。現在は花巻空港近くの花巻農業高校さんに移築されています。当方、移築後、初めて訪れました。

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他にも光太郎ゆかりの地、足跡の残る場所はありますが、とりあえず代表的なところはこんなものかということで、駆け足で巡りました。

これらの場所が、石井氏の手によって、どのようなジオラマとなってゆくのか、非常に楽しみです。

花巻で、光太郎ゆかりの地を歩きたいという方、ご参考になさって下さい。


【折々のことば・光太郎】

日本はすつかり変りました。 あなたの身ぶるひするほどいやがつてゐた あの傍若無人のがさつな階級が とにかく存在しないことになりました。

連作詩「暗愚小伝」中の「報告(智恵子に)」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

敗戦、そしてGHQによる統治が始まり、「傍若無人のがさつな」軍は解体されました。そして世界に誇る平和憲法の制定。しかし同じ詩の中で、それを「他力による変革」、「内からの爆発で」「自力で得たのでないことが」「恥しい」としています。

それをないがしろにし、いわんやなし崩しに改悪しようとする現在の「傍若無人のがさつな階級」の出現までも、光太郎は見こしていたのかもしれません。