なかなかネット上に情報が公開されなかったため、(まだごたごたしているようで、市のフェイスブックには情報が出ていますが、ホームページ等には未掲載です。広報誌の今月号にも載りませんでした) 紹介が遅れましたが、岩手花巻の高村光太郎記念館さんで、秋の企画展が始まります。 

秋期企画展 智恵子の紙絵 智恵子抄の世界

期  日 : 2017年9月15日(金)~11月27日(月) 会期中無休
会  場 : 高村光太郎記念館 岩手県花巻市太田3-85-1 0198-28-3012
時  間 : 午前8時30分から午後4時30分まで
料  金 : 一般 550円(450円) 高校生及び学生 400円(300円)
                           小中学生 300円(200円) ( )内団体料金

 彫刻家で詩人として知られる高村光太郎。その妻、智恵子は雑誌『青鞜』創刊号の表紙絵を描き、新鋭の画家として注目されるなか光太郎と出会い、結ばれました。結婚後、智恵子は自身の油絵に対する芸術的苦悩や実家の一家離散が重なり、心の病に侵され睡眠薬で自殺を図ります。一命は取りとめたものの長い療養生活に入り、その後回復することはなく、昭和13年に入院先のゼームス坂病院でこの世を去ります。享年数え53歳の生涯でした。
 晩年の智恵子は作業療法として身の回りにあった色紙や包装紙など、様々な紙をマニキュア鋏で切りぬき、台紙に貼りつける「切り抜き絵」を多く制作します。それらは光太郎ただ一人に見せるために作られました。後に光太郎は智恵子の遺作となった切り抜き絵を「紙絵」と名づけました。太平洋戦争の空襲で光太郎はアトリを全焼し自身の作品の多くが焼失しましたが、智恵子の紙絵は花巻など地方に疎開させていて難を逃れました。
 この企画展では智恵子の紙絵のほか、愛の詩集ともいわれる詩集「智恵子抄」に関わる資料などを公開します。展示を通して智恵子の思いを感じていただければ幸いです。

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チラシ表面に使われているのは、昭和20年(1945)、花巻に疎開した光太郎を一時期自宅に住まわせ、その後も何くれとなく世話を焼いてくれた、初代花巻高村記念会理事長・佐藤隆房に贈った智恵子紙絵です。光太郎による画賛「智恵子遺作 切抜絵数種恵存」そして短歌「気ちがひといふおとろしきことばもてひとは智恵子をよばむとすらむ」が書き込まれています。

今回の展示では、これともう一点、二尾の魚をあしらった紙絵の、実物二点、あとは複製の紙絵が20点ほど展示されます。また、関連資料としていろいろ。先週、花巻高村光太郎記念会の方が当方自宅兼事務所に立ち寄られ(二本松や九十九里など、智恵子ゆかりの地の映像が会場内で流されるそうで、その撮影の合間に立ち寄られました)、いくつか展示できそうなものをお貸ししました。光太郎生前の昭和26年(1951)と同28年(1953)に、東京で開催された智恵子紙絵展のパンフレット、「映画になった智恵子抄」ということで、昭和32年(1957)公開・原節子さん主演と、同42年(1967)公開・岩下志麻さん主演の映画「智恵子抄」のポスター。


関連行事というわけではないのでしょうが、併せてご紹介しておきます。 

智恵子アート体験

期  日 : 2017年9月の毎週土曜
会  場 : 森のギャラリ-(旧高村記念館) 高村山荘・高村光太郎記念館敷地内
時  間 : 午前10時から12時まで 所要時間30分程度
費  用 : 500円 高村山荘入館料、材料費

型紙を使って紙を切り取り、ハガキや色紙に張り合わせて作り上げる紙絵制作体験を行っています。
子どもから大人までどなたでも手軽に楽しめます。
詳しくは、高村光太郎記念館 0198-28-3012へ。

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昭和41年(1966)に竣工した、旧高村記念館が、先月、「森のギャラリー」としてリニューアル。この手のちょっとしたイベントなどに使えるようになっています。紙絵の制作体験も先月末に一度行われました。おそらく2日と9日にも行われていたのではないかと思われます。


当方、別件もあり、今週末に行って参ります。詳しくはその後にレポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

智恵子が私の支柱であり、 智恵子が私のジヤイロであつたことが 死んでみるとはつきりした。 智恵子の個体が消えてなくなり、 智恵子が普遍の存在となつて いつでもそこに居るにはゐるが、 もう手でつかめず声もきかない。 肉体こそ真である。

連作詩「暗愚小伝」中の「おそろしい空虚」より
 昭和22年(1947) 光太郎65歳

昭和13年(1938)10月5日、智恵子歿。その当初の光太郎はこうでした。「肉体こそ真」という考えから脱却し、智恵子は元素となっても常に自分を囲繞してくれている、と考えられるようになったのは、戦後になってからです。

ジャイロ(羅針盤)を失って、「おそろしい空虚」にはまりこんだ光太郎は、同じ詩の中で「乞はれるままに本を編んだり、変な方角の詩を書いたり」してしまったと述懐されます。空虚な翼賛詩の乱発と、それをまとめた詩集『大いなる日に』(昭和17年=1942)、『をぢさんの詩』(同18年=1943)、『記録』(同19年=1944)などを指します。