明日、大相撲秋場所が初日を迎えます。

少し古いのですが、『スポーツニッポン』さん、7月31日に掲載された、名古屋場所で大記録を打ち立てた横綱白鵬関についての記事をご紹介します。 記事が出てすぐの頃、このブログでは岩手花巻と盛岡に行っていたレポートを書いており、紹介する機を失ってしまったので、秋場所が始まる前日の9月9日に紹介しよう、と心に誓っておりました(笑)。

ところがその白鵬関、残念ながら秋場所は休場だそうです。しかし、再起へのエールの意味も込め、予定通りご紹介します。

【笠原然朗の舌先三寸】 「横綱相撲」という幻想との闘い 大横綱・白鵬へ

 大相撲の横綱・白鵬は、名古屋場所で元大関・魁003皇の持つ通算勝ち星1047勝超えを達成。優勝回数も39回と伸ばした。
  まさに無人の荒野を行くが如し。詩人・高村光太郎が書いた詩「道程」の冒頭ではないが「僕の前に道はない。僕の後ろに道はできる」である。
  前人未到の記録をたたえる半面、その相撲っぷりについて横綱審議委員会(横審)などからクレームが聞こえてくる。
  「立ち会いの張り手はいかがなものか」「最高位に立つ者としてふさわしい相撲か?」など外野がかまびすしい。
  「横綱としてふさわしい相撲」とは何か?
  「横綱相撲」という言葉がある。「大辞林」によると「正面から相手を受け止めて圧倒的な力の差を見せつけて勝つこと」とある。
  お手本のような横綱相撲をとった力士は誰か?このあたりに「横綱相撲」という言葉が生まれたルーツがありそうだ。
  ここからは一好角家としての推察である。
  「横綱相撲」のルーツは、「角聖」とも呼ばれた明治の19代横綱・常陸山にあると思われる。
  幕内成績は150勝15敗131休22分2預。勝率は実に9割超え。身長1メートル75、体重146キロは。当時としては超巨漢の部類に属し、稽古で鍛えた体はナチュラルな筋肉質。いくつかの本の中で、その相撲っぷりについて「待ったはせず、相手の声でたち、十分にとらせてから勝つ」とある。当時の映像が残っており、YouTubeなどでみることができる。
  映像から見て取れるのは、相手十分の体勢で猛攻をかわして、かわして最後はねじ伏せる相撲っぷり。まさに横綱相撲である。
  以後、相撲史の中で強豪横綱として名前が挙げられるのは猛突っ張りで“史上最強”ともいわれる22代横綱・太刀山らがいるが、常陸山の「横綱相撲」を継承したのは「相撲の神様」、「昭和の角聖」とも呼ばれた35代横綱・双葉山だろう。白鵬もいまだ達成できていない69連勝の記録を持つ。
  待ったをせず、「後の先」の立ち合いを完成。強靱で軟らかい足腰を利して、勝利を重ねた。
  常陸山、双葉山に伝承された「横綱相撲」の次の担い手は48代横綱の大鵬。立ち会いに変化はせず、「きれいな相撲」のイメージがある。柔軟な身体を生かした相撲は「型がない」と評されたこともあり、相手の攻撃を吸収してしまうような相撲っぷりも見る者に「横綱相撲」と映ったのだろう。
  こうして「横綱相撲」というイメージがいまに伝わるに至る。
  時代を超えて共に「角聖」と賞された常陸山、双葉山だが、2人に共通するのは年2場所の時代を生きた横綱だったこと。常陸山にいたっては9割超の勝率をあげた一方で、休場は131。22引き分けに、2預かり。「預かり」とは勝敗がどちらかよくわからない場合の措置。ビデオ判定などない時代のものだ。
  常陸山はゆっくりと相撲をとり、十分に休んで40歳で引退するまで24年間の現役生活を全うした。
  年間6場所の時代の横綱である大鵬は32回の優勝を重ねる一方で、31歳で引退している。
  年間6場所は力士にとって過酷であり、弱くなって負ければ引退しか残されていない横綱にとって30~33歳は「引退適齢期」ともいえる。
  双葉山以降で10回以上優勝した横綱に限っていえば、44代横綱・栃錦、55代横綱・千代の富士の35歳が引退“最高齢”である。
  大鵬に次ぐ「横綱相撲」の継承者である白鵬も32歳。3年後の2020年まで現役横綱として活躍することを目標としている。綱を張り続けるためには、日々衰えていく体力と気力との戦い、年に2、3回の優勝が求められる。白鵬の休場は出場98場所に対してたった58休。休まずに勝ち続けることも「横綱」の務めであり「大横綱」の条件なのだ。
  前人未到の道を行く白鵬である。
  相撲は実際にとっている本人しかわからない、と言ってしまえばそれまでだが、「あれもダメ」、「これはいけない」と必要以上に常陸山、双葉山、大鵬と受け継がれてきた「横綱相撲」という幻想にとらわれ、彼の相撲を評価するのはいかがなものか。相撲は武道における演武のように型を見せるものではない。
  「相手に応じて臨機応変、変幻自在の対応ができる」のが白鵬。これは「横綱相撲」ならぬ、それがさらに進化した「大横綱相撲」だろう。
  だからこそ「何でもありの闘神」と化した横綱に対し、なりふり構わずあの手、この手でぶつかっていく若手力士の奮起に期待したい。


前人未踏の記録を打ち立てたり、後に続く人々への道を切り開いたりしたスポーツ選手などを評するのに、「道程」の一節がよく使われます。平成26年(2014)には、日米プロ野球の架け橋として大きな功績を残した野茂英雄さんを紹介する記事に使われました。今年に入っても、将棋の藤井聡太四段の記事に、「道程」が引き合いに出されています。

それぞれ道は違えど、光太郎にしても、野茂さんや藤井四段にしても、そして白鵬関にしても、自ら道を切り開いていった姿には、感銘を禁じ得ません。

ところで、スポニチさんの記事後半、「横004綱相撲」の代表格として名が挙げられている常陸山。光太郎と同世代なので、気になって調べたところ、光太郎が常陸山に言及した評論がありました。明治44年(1911)の雑誌『文章世界』第6巻第5号に掲載された「粘土と画布」という評論です。

 僕等には偉大とか、崇高とか、森厳とか、宏壮とか、雄渾とかいふ形容詞が、従来の意味では余り馬鹿げてゐて、今日の芸術品を形容するのに憚る次第である。又、此の種の形容詞は量の大きさに対する驚嘆の情に眩惑されて、無内容、無感覚な作品に冠せらるる事が屢〻ある。此の種の公衆にはピラミツドの写真、ナイヤガラ瀑布(だき)の写真、富士山の写真、下つては常陸山の写真でも恭しく捧げて置く。
 量が力ではない。量の振動が力である。

「大きいことはいいことだ」的な発想を芸術の世界に持ち込もうとする輩に対しての警句です。常陸山にしてみればいい面の皮、といった感がありますが、ピラミッドやナイアガラ、富士山と並び称されての常陸山ですから、この当時から偉大なる者としての評価が高かったことは窺えます。

現代のこうした例に「白鵬の写真でも」となるよう、秋場所は休場としても、白鵬関の再起を祈念いたします。


【折々のことば・光太郎】

カトリツクに縁があつたら きつとクルスにすがつてゐたらう。 クルスの代りにこのやくざ者の眼の前に 奇蹟のやうに現れたのが智恵子であつた。

連作詩「暗愚小伝」中の「デカダン」より 昭和22年(1947) 光太郎65歳

「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」と、決意を固める前、旧態依然たる日本芸術界との苦闘に疲れ、酒浸りの「デカダン」の日々を送っていた光太郎。まさしく「奇蹟のやうに現れた」智恵子によって、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出来る」の境地に達することが出来ました。

今日はその智恵子の故郷、福島二本松に行って、今日から始まる「重陽の芸術祭2017」を拝見して参ります。