一昨日の『毎日新聞』さんの大阪夕刊から。

舞台をゆく長野県松本市・徳本峠(ウェストン「日本アルプスの登山と探検」) 穂高岳の雄姿、幾年月も

 毎年夏から秋にかけて大勢の観光客でにぎわ001う長野県・上高地。1933(昭和8)年にバスの乗り入れが始まるまで、旅行者や登山客は、徒歩で徳本(とくごう)峠を越えて上高地に入った。日本アルプスの魅力を初めて国内外に広く知らせたウェストン(1861~1940)の著書など、多くの紀行文に登場する峠を訪ねた。【関雄輔】

 「峠の最高点近くからの展望は、日本で一番雄大な眺望の一つで、円い形の輪郭や緑に包まれた斜面のある普通の山の風景とは、全くその趣を異にしている」
 
 英国出身のウェストンは宣教師として日本を訪れ、1891年(明治24年)の夏、徳本峠を経て槍ケ岳を目指した。悪天で断念したが翌年、登頂に成功。その後も繰り返し徳本峠を越え、周辺の魅力を「日本アルプスの登山と探検」などの著書に記した。ウェストンだけでなく、上高地を舞台に「河童(かっぱ)」を書いた芥川龍之介や、詩人の高村光太郎もこの峠を歩いたという。
 
 今月1日の早朝、松本市の安曇支所前でバスを降り、徳本峠への道を歩き始めた。上高地までは約20キロ。2時間ほど歩くと、道ばたに炭焼き窯の跡があった。上高地が観光地化される以前から、この峠道は狩猟や炭焼きなどに従事する人々の生活の道だったのだろう。今は利用する登山客も少なく、ハイシーズンの北アルプスとは思えない静かな山道が気持ちいい。
 
 さらに歩くこと1時間、現在は営業休止中の岩魚留(いわなどめ)小屋にたどり着いた。道沿いの沢が、岩魚を足止めするほどの急流に変わることからこの名が付いたという。

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 小屋の前で休憩中、この日初めて他の登山者と出会った。神奈川県藤沢市から来たという小川武士さん(53)。「多くの人が行き来した歴史あるルートで、以前から
一度歩いてみたいと思っていた」。互いの疲れをいたわり合い、峠への急坂に取りかかった。
 
 息を切らしながら3時間ほど登ると、峠の広場に出た。標高2135メートル。あいにくの曇り空で、ウェストンが「日本で一番雄大な眺望」と賞した穂高岳の姿は見えない。翌日に期待をかけ、今夜の宿である徳本峠小屋に荷物を下ろした。
 
 1923(大正12)年に営業を始めた徳本峠小屋は、2010年に建てられた新館に隣接して旧館がそのまま残されている。国の登録有形文化財に指定されており、内部の柱や梁(はり)は建てられた当時のままという。
 古い落書きがいくつも残されていた。ほとんどが名前と日付で、特に多いのが「昭和二十年八月」。「八日」もあれば「二十日」もある。終戦の前後、彼らはどんな思いでここに来たのだろう。
 翌朝、目を覚ますと雲一つない快晴だった。峠の木々004の間から穂高岳が見えた。峠から尾根伝いに霞沢岳(2646メートル)まで往復し、昼過ぎに上高地へと下山。梓川沿いの散策路は大勢の観光客でにぎわっていた。
 大正時代末から昭和の初めにかけ、上高地は観光地として大きく姿を変えた。商店や旅館が増え、バス路線の開通で峠道は使われなくなった。豊かな自然は今も変わらないが、人の流れは100年あまりで大きく変化した。英語や中国語の会話が聞こえてくる現代の上高地を歩きながら、ウェストンらが歩いた往時の風景を思った。

徳本峠登山ルート(長野県松本市)
アクセス
 徳本峠へは、安曇支所前から徒歩で約7時間半。峠から上高地への下りは約1時間半。霞沢岳へは峠から往復約7時間。所要時間は個人差が大きいため要注意。徳本峠小屋(090・2767・2545)は予約が必要。


記事にある、光太郎が徳本峠を越えて上高地に入ったのは、大正2年(1913)の夏。あとから結婚前の智恵子も追いかけてきて合流、1ヶ月ほどを過ごしました。智恵子も健脚で、徳本峠を歩いて越えました。光太郎は上高地で描いた油絵を、この年開かれた生活社展に出品しています。

上高地についてはこちら。



白状いたしますと、当方、上高地には行ったことがありません。いずれ、とは思っております。


【折々のことば・光太郎】

夫人一生を美に貫く。 火の燃ゆる如くさかんに 水のゆくごとくとどまらず、 夫人おんみづからめでさせ給いし 五月の薔薇匂ふ時 夫人しづかに眠りたまふ。

詩「与謝野夫人晶子先生を弔ふ」より 昭和17年(1942) 光太郎60歳

光太郎の本格的な文学活動の出発点といえる新詩社を主宰していた与謝野鉄幹・晶子夫妻。いわば光太郎の師にあたります。

その晶子が亡くなったのは、昭和17年(1942)5月29日。晶子は光太郎より5歳年長でしたので、数え65歳。早いといえば早い逝去でした。光太郎のこの詩、智恵子へのそれとはまた趣を異にした、味わい深い挽歌です。

しかし、こう言っては何ですが、晶子はこの時点で亡くなったのは、ある意味、幸せだったかも知れません。

かつて日露戦争の際に、出生する弟に「君死に給ふことなかれ」と謳いかけた晶子も、この年にはこんな短歌を詠んでいます。

  戦(いくさ)ある太平洋の西南を思ひてわれは寒き夜を泣く
  水軍の大尉となりて我が四郎み軍(いくさ)にゆくたけく戦へ

「四郎」は「四男」の意で、大正2年(1913)生まれのアウギユスト(本名です。ロダンのファーストネームから採りました)。

この時期、ほとんどすべての文学者は、こうした戦意高揚の作品を書くことが求められていました。変な言い方ですが、晶子ももう少し生きながらえてしまっていたら、この手の歌をもっとたくさん遺してしまうことになったでしょう。そうならなかったのがせめてもの救い、というわけです。