昨日は終戦記念日でした。光太郎第二の故郷ともいうべき岩手の地方紙『岩手日報』さんの一面コラム「風土計」で、それにからめて光太郎を紹介して下さいました。

風土計 2017.8.15

 岩手にとって1934(昭和9)年は歴史に刻まれる年だろう。その夏は異常に寒かった。大凶作となって人々は食うに困り、娘は身売りに出された。前年の大津波に続いて、農漁村はみるみる疲弊していく
▼釈迢空(ちょうくう)こと折口信夫が詩「水牢(みずろう)」を世に問うたのは、この年だった。<水牢さ這入つて 観念の目を閉ぢた><娘を売つて-から 水牢だ>。以前に東北の旅を通じて、農民の窮状を目の当たりにしていた
▼飢えは人々の怒りを呼び起こす。青年将校の暴走を生み、政治は軍部を抑えられない。そして戦いへと、ひた走っていく。水責めの牢獄・水牢に社会全体が入り込み、抜け出せなくなる。そんな時代だった
▼戦火の中で折口の養子・春洋(はるみ)も戦死した。<戦ひにはてし我が子のかなしみに、国亡ぶるを おほよそに見つ>。悲憤の歌がいくつも残る。今年で生誕130年の民俗学者はこの時、心の水牢に入り込んだのだろう
▼もう一人、あえて水牢を望んだ人がいる。高村光太郎は終戦後間もなく、花巻の粗末な小屋に入った。戦争賛美の詩を書き続けた自らを罰するために。そして語った。「ぼくは自分から水牢に入るつもりだった」と
▼72年前のきょう8月15日。終戦により人々は水牢から放たれたが、引きずり込まれる者もいた。戦争というものの、それが宿命なのかもしれない。


花巻郊外旧太田村。譲り受けた鉱山の飯場小屋を移築してもらっての「水牢」生活は7年に及びました。それでも許されたとは思っていなかったようですが、「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」制作の依頼に応えるために再上京。仕事が終わればまた「水牢」に戻るつもりでした。しかし、健康状態がそれを許しませんでした。10日余り太田村に帰ったものの、結局は東京で療養せざるを得なかったのです。というより、これこそがある意味、天の配剤だったのかも知れません。「もう十分だ」という……。

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村人達との心温まる交流、若い頃から憧れていた自然に包まれての生活など、プラスの面もありましたが、それをさっ引いてもマイナスの要因の多い暮らしでした。小屋は村の一番はずれで、夏は周りを熊がうろつき(現在もです)、冬は零下二十度、寝ている布団にさえ隙間から入り込んだ雪がうっすらと積もったといいます。最初の数年間は電気さえ引いていませんでした。その自虐ともいえる過酷な生活は、戦時中に大量の翼賛詩文を書き殴り、それを読んだ前途有為な多くの若者を死に追いやった反省からくるものでした。公的には戦犯として訴追されなかった光太郎ですが、己を罰するために、あえて不自由な生活、さらに天職と考えていた彫刻の封印を、自らに科したのです。

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まったくもって、こうした世の中が再び訪れないよう、一人一人が考えていかなければならないと、痛切に思いました。


【折々のことば・光太郎】

夜が明けたり日がくれたりして そこら中がにぎやかになり、 家の中は花にうづまり、 何処かの葬式のやうになり、 いつの間にか智恵子が居なくなる。 私は誰も居ない暗いアトリエにただ立つてゐる。 外は名月といふ月夜らしい。

詩「荒涼たる帰宅」より 昭和16年(1941) 光太郎59歳

この年8月に刊行された詩集『智恵子抄』のために書き下ろされたと推定されている詩の末尾です。3年前の智恵子葬儀の日をモチーフにしました。

亡き智恵子を偲ぶ時、「狂瀾怒涛の世界の叫も この一瞬を犯しがたい。 あはれな一個の生命を正視する時、 世界はただこれを遠巻にする。」(「梅酒」 昭和15年=1940)と謳っていた光太郎でしたが、この詩をもって、公表された詩で智恵子を謳うことは、戦後まで途絶えます。

智恵子に思いを馳せる時のみ、強引な言い方ですが人間性を回復できていた光太郎、愛する者の死を謳うことで、愛する者に別れを告げ、同時に詩人としての「魂」も自ら死に追いやったといえます。ここから約4年、上記のような翼賛詩の書き殴りの時期が続きます。