2泊3日の行程を終え、先ほど、宮城女川から帰って参りました。
昨日の第26回、女川光太郎祭をレポートいたします。


会場は、JR女川駅前に新たに建設された商店街・シーパルピア女川のはずれに建つ、女川町まちなか交流館さん。台風余波の驟雨が時折強く降りしきる中での開催となりました。

多目的ホールが備わっており、ゆったり広々した会場で開催できました。特に今年は、智恵子の故郷・福島二本松から、智恵子命日の集い・レモン忌を主催されているレモン会の皆さん20余名が、マイクロバス一台で駆けつけて下さり、多数の参会となりましたので、広い会場で幸いでした。


はじめに黙祷。かつてこの会を取り仕切っていた、貝(佐々木)廣氏を偲んで、頭を垂れさせていただきました。

その後で、当方の講演。昭和22年(1947)に発表された、光太郎のそれまでの65年間を振り返る連作詩「暗愚小伝」に基づき、光太郎の生の軌跡をご紹介する連続講演で、今年は5回目。主に智恵子との結婚生活、その始まりから終焉までを語らせていただきました。合間に光太郎の肉声の録音なども聞いていただき、おおむね好評でした。
主催の女川光太郎の会・須田会長のご挨拶。

須田会長は女川沖に浮かぶ出島(いずしま)ご在住の漁師さんで、年に数回、当方の元に銀鮭やらホヤやらサンマやらを送って下さっています。
光太郎遺影、それからかつて会場すぐそばに建っていた光太郎文学碑の写真に献花。レモン会の方にもお願いしました。


今年の会場からは、横倒しになった文学碑が見えました。ちょっとわかりにくいのですが、下の画像、真ん中の電柱の真下の黒いのがそうです。

碑の関係については、いずれ日を改めてこのブログでご紹介します。
その後は、ギタリスト・宮川菊佳さんの演奏に乗せて、光太郎の詩文の朗読。



小学生からご高齢の方、さらに地元の方から遠方の方まで、それぞれに個性あふれる朗読でした。
アトラクションとして、音楽演奏も行われ、花を添えて下さいました。


故・貝(佐々木)廣氏夫人の英子さん。今回欠席された、当会顧問北川太一先生のメッセージを代読なさいました。


高村家から、光太郎の実弟にして鋳金の人間国宝だった豊周令孫・達氏のご挨拶。
こうしてつつがなく終了し、すぐ近くの中華料理店さんを借り切って、レセプション。

レモン会の皆さんは、二本松からの列車の都合がおありの方がいらっしゃるとのことで帰られましたが、北川先生の教え子の皆さんである北斗会の方々、詩人の曽我貢誠氏ご夫妻、音楽演奏をなさって下さった方々、女川の風土に魅せられて、毎年この日に遠方からいらっしゃる方々、そして地元の皆さんなどで、おおいに盛り上がりました。泉下の光太郎、さらに貝(佐々木)廣氏も喜んだことでしょう。
その途中、喫煙のため外に出たところ、見えた夕焼け。


一年後の再会を約し、散会しました。
今朝、地元紙『石巻かほく』さんで、早速報じて下さいました。
女川で「光太郎祭」、講演と朗読 紀行文や詩に思いはせる
女川町を訪れた詩人で彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)をしのぶ、第26回「光太郎祭」(女川・光太郎の会主催)が9日、町まちなか交流館で開かれた。光太郎は31年の8月9日に三陸地方を巡る旅に出発した。町民ら約60人が参加。高村光太郎連翹(れんぎょう)忌運営員会代表の小山弘明さんが「高村光太郎、その生の軌跡~連作詩『暗愚小伝』をめぐって」と題して講演。光太郎と妻智恵子が共に歩んだ人生を、光太郎の詩を紹介しながら解説した。
小山さんは、光太郎が智恵子と結婚披露宴を開いた1914年の作品「道程」について「光太郎が文学や彫刻で新しい道をつくっていく決意を表している」と説明。「道程」の一文にある「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来(でき)る」に触れ、「現代のわれわれにも通じる素晴らしい作品だと思う」と述べた。
参加者はじっくりと聞き入り、光太郎と智恵子の生涯に理解を深めた。
光太郎の紀行文や詩の朗読もあり、女川を題材にした「よしきり鮫(ざめ)」などが紹介された。
91年に女川を題材にした紀行文や詩の文学碑が女川港近くに建立され、92年から光太郎祭が開かれている。

来年以降も、続けられる限り、永続的に行われて欲しいものです。
【折々のことば・光太郎】
見えもかけ値もない裸のこころで らくらくと、のびのびと、 あの空を仰いでわれらは生きよう。 泣くも笑ふもみんなと一緒に 最低にして最高の道をゆかう。
詩「最低にして最高の道」より 昭和15年(1940) 光太郎58歳
あの東日本大震災の大津波を経験され、愛する者を失い、故郷の街の壊滅、そして再生を見てこられた女川の皆さん。まさに「泣くも笑ふもみんなと一緒に」だったわけです。
ただし、光太郎は「泣くも笑ふもみんなと一緒に」、泥沼の戦争協力へと進んでしまったのが、本人にとっても大きく悔やまれることでした。