

今号では「<高村光太郎論> 光太郎とパリ」。光太郎が明治41年(1908)から翌年にかけ、3年余に及ぶ欧米留学の最後に滞在したパリとの関わりを述べられています。
パリ時代を回想して作られた詩文がかなり網羅されており、短い稿の中ですっきりまとまっています。連作詩「暗愚小伝」中の「パリ」(昭和22年=1947)、随筆「遍歴の日」(同26年=1951)、長詩「雨にうたるるカテドラル」(大正10年=1921)、談話筆記「パリの祭」(明治42年=1909)、翌年のやはり談話筆記で「フランスから帰つて」、随筆「出さずにしまつた手紙の一束」(同43年=1910)、同じく「よろこびの歌」(昭和14年=1939)、さらには光太郎の実弟・豊周の回想も引かれています。
また、巻末の「パリの思い出」でも光太郎に触れられている箇所がありました。
当方は未だパリには行けずにおります。いずれ光太郎の辿った道のり、ニューヨーク、ロンドン、パリ、そしてスイスとイタリアの諸都市を廻ろうとは考えておりますが、いつになることやら(笑)。
パリといえば、親しくさせていただいているテルミン奏者の大西ようこさんが、先週、フランスのエクス=アン=プロヴァンスでコンサートをなされ、パリにも廻るとのことで、ぜひ光太郎が住んでいたカンパーニュ・プルミエル通り17番地界隈に行ってみて下さいと、資料をお渡し、画像を撮ってきて下さいとお願いもしました。そろそろ帰国されると思いますので、期待しております。
過日は、今年の連翹忌に初めてご参加下さった方から、ロンドンの光太郎ゆかりの場所を廻って来られたということで、多くの画像がメールで届きました。そちらも併せてご紹介しようと思っております。
ご期待下さい。
【折々のことば・光太郎】
人間商売さらりとやめて もう天然の向うへ行つてしまつた智恵子の うしろ姿がぽつんと見える。
詩「千鳥と遊ぶ智恵子」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳
舞台は3年前、智恵子の母・センと、妹・セツの一家が移り住んでおり、それを頼って心を病んだ智恵子が半年ほど預けられた、千葉の九十九里浜です。「智恵子抄」中の絶唱の一つとして、広く人口に膾炙している詩ですね。
ところが、「智恵子抄」に収められてしまうとそれが見えないのですが、この年の雑誌『改造』に初出発表された段階では、「詩五篇」の総題で連作詩のような形を取っていました。他の四篇は、やはり「智恵子抄」に収められた「値(あ)ひがたき智恵子」(明日、ご紹介します)、一昨日と昨日ご紹介した「よしきり鮫」、「マント狒狒」、そして割愛しますが「象」。後三篇は連作詩「猛獣篇」に含まれるものです。
「人間商売さらりとやめ」た智恵子は、もはや「猛獣」に近いものと認識されていたのかもしれません。ただし、光太郎曰くの「猛獣」は、獰猛な獣ということではなく、妖怪やら鯰やら駝鳥やらを含み、人間界に箴言、警句を発する者として捉えられています。
とすると、智恵子の発する箴言や警句は、そこまで智恵子を追い込んだ光太郎に対して向けられていると言えるのではないでしょうか。それを受けて光太郎は、それまでの世間との交わりを極力経っての芸術三昧的な生き方から、積極的に世の人々と交わる方向に舵を切ります。その世の中がどんどん泥沼の戦時体制に入っていったのが、光太郎にとっての悲劇でした。