昨日は、岩手花巻高村光太郎記念会さんのスタッフ氏と一緒に、都内2ヶ所を廻っておりました。

まずは神保町の東京古書会館さんで開催されていた、明治古典会七夕古書大入札会2017の一般下見展観。毎年この時期に行われる、古書業界最大の市(いち)で、出品物全点を手に取って見ることができるという催しです。

記念会さんでは、特に光太郎が花巻町および郊外旧太田村で暮らしていた昭和20年代の資料でいいものがあれば購入されていて、毎年いらしています。当方も目新しい資料が出ていれば見に行くことにしています。

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今年は出品目録で「高村光太郎○○」という形で登録されていたものは、5点。こちらには目新しいものはありませんでした。

しかし、それ以外に光太郎メインではなく、他の作家などのものとの一括出品的なもので、新たな発見がありました。

「更科源蔵「犀」“種薯”紀念号 草稿及書簡・ハガキ類綴」。北海道弟子屈で開拓にあたりながら詩作を続けた詩人・更科源蔵の詩集『種薯』(昭和5年=1930)を特集した雑誌『犀』(同6年=1931)のための草稿、それに関わる書簡などでした。

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光太郎の「更科源蔵詩集「種薯」感想」の草稿も含まれており、画像で見ると原稿用紙欄外に書き込みがあって気になっていたのですが、これがビンゴでした。その感想が載った雑誌『犀』の編集に当たっていた詩人の真壁仁へのメッセージで、〆切に遅れた詫びと、自分の思いの丈をうまく表せなかったけれど、ともかく送る、的な内容がしたためられていました。

雑誌『犀』の該当号は、奥付によると昭和6年(1931)2月1日発行。原稿用紙の書き込みに「今年中にお届けしようと」の一言があり、前年末に送られたと推定できます。さらに『高村光太郎全集』の書簡の巻と照らし合わせてみると、昭和5年(1930)12月17日には、著者の更科源蔵に宛てた『種薯』を贈られた礼と、「“犀”から感想を求められました」の文言のある葉書(書簡№236・これも一緒に出品されていました)。同月19日、真壁に宛てた葉書(同238)では「いろいろの事で感想を送る事が遅れてゐます」、明けて1月2日には「大変遅れて失敬しましたが、二三日前にお送りしました故、もう届いてゐる事と思ひます」(同240)。これにより、暮れも押し詰まった頃に発送したことがわかります。通常、光太郎は原稿を送る際には他に便箋等で添え状をつけることが多かったのですが、よほど急いだのでしょう。原稿用紙欄外にそうした内容を書き込んでいたというわけです。

さらに、「文学者葉書集 七九枚」。宛先も差出人もまちまちで、おそらく個人のコレクター的な方がこつこつ集めたものと推定できました。光太郎の葉書は一通含まれていて、消印は昭和15年(1940)9月、宛先は今も続く創元社さんでした。内容的には、やはり原稿執筆依頼に関するもので、承諾の返答。調べてみましたところ、この年の11月発行の雑誌『創元』に「間違のこと」という散文が載っており、おそらくこれに関するものでしょう。

こういうパズルのピースがぴたっとくっつくようなところが、非常に面白いところです。

年によっては、目録掲載品以外の出品物がある年があったのですが、今年はそれはなし。結局、花巻では今年の入札はなしとのことでした。


続いて、大井町に向かいました。ジオラマ作家の石井彰英氏の工房です。少し前に、智恵子終焉の地・ゼームス坂病院を含む大井町近辺のジオラマを作成された石井氏に、花巻高村光太郎記念館での企画展用に昔の花巻周辺のジオラマを作成していただいてはどうかと思いつき、氏と花巻の記念会さんに打診したところ、双方前向きなご返事。そこで昨日、花巻の記念会さんと同道、お伺いした次第です。


大井町のジオラマはもはや廃棄されてしまったとのことですが、最初に作られたという北鎌倉のジオラマを見せていただきました。

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石井氏曰く「牧歌的」ということですが、非常に暖かみのある作で、街に流れる有線放送、車のエンジン音、電車の警笛、そして人々の他愛ない会話や息づかいまで聞こえてきそうな気がいたしました。

3人で2時間ほど、こんな感じで、という打ち合わせをしました。ただ、花巻では記念館が花巻市立となりましたので、行政の承認が必要です。予算等の問題、企画展示終了後の扱いなども絡み、そこはこれから記念会さんで交渉ということになります。幸い、石井氏が商売っ気抜き、原材料費のみで結構とおっしゃって下さり、実現の方向でいけそうな感じではあります。

ぜひとも実現してほしいものです。


【折々のことば・光太郎】

くひちぎる事の快さを知るものは、 君の不思議な魅力ある隠れた口に 総毛だつやうな慾情を感じて見つめる。

詩「よしきり鮫」より 昭和12年(1937) 光太郎55歳

昭和6年(1931)、夏、新聞『時事005新報』の依頼で紀行文「三陸廻り」を書くために、約1ヶ月、宮城から岩手の三陸沿岸を旅した経験が背景にあります。謳われているのは女川港に水揚げされた鮫。

女川町では、光太郎がこの地を訪れたことを記念し、平成3年(1991)、女川港を望む海岸公園に、4基の石碑が建てられました。そのうちの1基が「よしきり鮫」詩碑でしたが、平成23年(2011)の東日本大震災の大津波で流失してしまいました。当会顧問・北川太一先生曰く「鮫だけに、海へ帰ったのでしょう」。そして、碑の建設に奔走された、女川光太郎の会事務局長・貝(佐々木)廣氏も……。


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今年も光太郎が三陸に旅立った日(8月9日)に、女川光太郎祭が開催されます。詳細はまたのちほど。