光太郎の父・高村光雲がらみの報道です。『毎日新聞』さんの静岡版から。 

活人剣の碑 紙芝居に 地元有志ら、小中学校へ贈呈 袋井 /静岡

 袋井市久能の寺院「可睡斎(か000すいさい)」の境内に再建された「活人剣の碑」の由来などを子どもたちに伝えようと、地元有志らで作る再建委員会による紙芝居「活人剣の物語」が完成した。100セットを目標に製作し、市内の小中学校などに贈る。 
 20枚で構成。絵は個展開催歴もあるアマチュア画家で同市堀越の鈴木幸子さん(73)、文章は委員会メンバーがそれぞれ担当した。
 彫刻家の高村光雲作の初代の碑は、日清戦争(1894~95年)の講和交渉で来日した清国全権大使の李鴻章と、主治医を務めた旧陸軍軍医総監の佐藤進の交友の証しとして、1900(明治33)年に境内に建立された。医師の佐藤が軍刀を身に着けている理由を尋ねた李に、「私の剣は活人剣」と答えたことが碑名の由来という。
 しかし、第二次大戦中の金属供出で刀身部分がなくなり、台座だけとなっていた。このため、同寺や市民団体が復活に乗り出し、金属工芸家の宮田亮平氏が2代目を制作。2015年、別の場所に完成した。
 鈴木さんは「古い碑のあった場所にも行き、歴史を思い浮かべて一枚一枚丁寧に描きました」と言う。同寺の佐瀬道淳斎主(84)は「平和を願う碑ということを伝えたい」と話した。
 委員会は同じ内容の絵本を1000部作り、県内の図書館などに配る予定だ。【舟津進】


 「活人剣の碑」。記事にあるとお001、り明治期に光雲作の原型から鋳造されて可睡斎さんに据えられましたが、戦時中の金属供出で無くなってしまっていました。平成27年(2015)に、地元の方々の熱意で、初代の碑に似せて再建、その際の報道を、このブログでご紹介しています。


そこから碑の由来についての部分をコピペします。元ネタは『産経新聞』さんの静岡版。

 日清戦争の講和条約の交渉が下関で行われていた明治28(1895)年3月、清国全権大使の李鴻章が暴漢にピストルで襲われ、左目を負傷する事件が発生。陸軍軍医総監の佐藤進は、明治天皇の勅命を受けて李の治療に当たった。治療を通じて佐藤と交友を深めていた李が、常に軍服帯刀姿で治療する佐藤に「戦い方を知っているのか」と戯れかけると、佐藤は「私が手にする刀は殺人刀ではなく、活人刀だ」と即答。李はこの返答に感じ入り、別れに際して清の光緒帝からの褒章を約する詩を佐藤に贈った。
 
  李と佐藤の交友は、「活人刀」の問答として新聞紙上で大いに評判を呼んだ。佐藤が参禅していた縁もあり、可睡斎の日置黙仙斎主(当時)は「この話を長く後世に伝えたい」と発願。敵も味方もともに平等であるという「冤親(おんしん)平等」の思想のもとに浄財を募り、明治31年ごろに日清両国の戦没者の霊を弔う活人剣碑を建立した。

さらに、やはり『毎日新聞』さんの静岡版。

 地元有志でつくる「袋井まちそだての会」(遠藤亮平代表)や可睡斎、佐藤が第3代理事長を務めた学校法人順天堂(東京)は地域に眠る遺産に再び光を当てるべく、数年前から再建に向けた協議を進めてきた。遠藤代表(66)は「(碑は)歴史を振り返るよすが。日中友好や平和のシンボルにもなるはず」と期待を込める。

そういうわけで、碑が再建されました。

そしてこのたび、上記の由来を地元の子供たちにもっと知ってもらおうと、紙芝居が作成されたというわけです。この手の碑は建てて建てっぱなし、建てられて数年も経つとその存在すら忘れられてしむというものも少なくない中、こうした取り組みには頭が下がります。

特に中国や韓国との関係がぎくしゃくしている現在こそ、こういうことが必要でしょう。


ところで、以前の記事が出たあと、可睡斎さん002について調べていましたら、初代高村晴雲作の仏像がいらっしゃることがわかりました。晴雲は、光雲の師・高村東雲の孫。明治26年(1893)の生まれで、光雲に学びました。10歳年長の光太郎とも交流があり、戦後は花巻郊外太田村に隠棲していた光太郎の元を訪れたりもしています。その際に贈られた晴雲作の観音像が、花巻高村光太郎記念館さんに所蔵されています。

可睡斎さんでは、「烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)像」。なんとトイレに安置されています。トイレといっても、「東司(とうす)」という独立した堂宇で、烏枢沙摩明王は「烈火で不浄を清浄とする力を持つ」とされることから、東司の守護神として鎮座ましましているわけです。

像高3メートルの巨大な木彫で、お参りされる方は一様に驚きの声をあげられるそうです。

当方、可睡斎さんにはまだ足を運んだことがありません。折を見て参拝したいと存じます。

皆様も是非どうぞ。


【折々のことば・光太郎】

又買ひ出されて来た一団の人夫。 おれの朴歯が縦に割れて、 二千の軀(むくろ)の上に十里の山道がまつ青だ。

詩「上州湯檜曾風景」より 昭和4年(1929) 光太郎47歳

「湯檜曾」は現在の群馬県利根郡みなかみ町。温泉地です。光太郎がここを訪れた際、上越線の清水トンネルの掘削工事が行われているところでした。竣工は2年後です。

「買ひ出されて来た一団の人夫」は、詩の前半に「二千人の朝鮮人」と記されています。この頃、半島の人々を強制連行しての工事が日本各地で行われていました。清水トンエルの工事自体はそれほどの難工事ではなかったようですが、東海道線の丹那トンネルの工事では、延べ 250 万人が動員され朝鮮人7名を含め67人が犠牲になったとか、湯檜曾にほど近い中津川第一発電所の建設工事では逃亡を試みた数十人の朝鮮人労働者たちが射殺されたり、セメント漬けにされて信濃川に投げ込まれたりした「信濃川朝鮮人虐殺事件」も知られています。

こうした事象を背景に、光太郎、思うところがあったのでしょう。詩「上州湯檜曾風景」が作られました。

いわゆる自称「愛国者」のゲスどもは、こうした事件も捏造だ、と言い張るのでしょうか。何かというと「中韓は……」「在日は……」とほざく輩こそ、可睡斎さん「活人の碑」の精神に学びなさい、と言いたいところです。