2泊3日の行程を終え、先ほど、光太郎第二の故郷ともいうべき岩手花巻から帰って参りました。順にレポートいたします。

5/14(日)、午前中に花巻に着きました。当初予定していた訪問先が先方の都合でポシャり、予定を変更して、花巻市街に立ち寄りました。レンタカーを借りておりましたので、比較的自由に動けます。

まず、昼食を兼ねて、市役所近くのやぶ屋総本店さんへ。ちなみに朝が早かったので、かなり空腹。そばではなくカツ丼を頂きました。

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宮澤賢治が稗貫農学校に勤務していた頃よく訪れ、天ぷらそばとサイダーを頼んでいたことで有名です。光太郎も戦後、何度かここで食事をとっています。

以前に行ったときに気づいていたのですが、その時はお店の方々があまりに忙しそうだったので、訊くのを遠慮していた件があり、この機会に、と思って寄らせていただきました。

レジの脇に、賢治関連のもろもろに混じって、光太郎の詩稿のコピーがスナップ写真と共に飾られているのです。

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書かれている詩は「初夢まりつきうた」(昭和26年=1951)。花巻商人をモチーフにしています。

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なぜここにコピーが掲げられているのか、コピーでない原本はこちらにあるのか、また、それに付随して光太郎からの書簡、これ以外に書いてもらった書などもあれば、と思っていたわけです。ちょうど年配の店員さんがレジを打って下さったので、訊いてみましたが、残念ながら、ここにコピーが飾られている理由等、わからないそうでした。また、原本や、他の光太郎が書いたものなどはないだろうとのこと。残念でしたが、仕方がありません。


続いて、やぶ屋さんからそう遠くない、松庵寺さんに。当方、こちらに伺うのは5回目ぐらいでしょうか。直近では、このブログを始めた頃、5年前くらいだったと記憶しています。ただ、このブログではその際のことは書いていませんでした。

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こちらは、終戦の年の秋から、毎年のように光太郎が出向き、父・光雲や妻・智恵子、そして母・わかの法要を営んでもらっていた寺院です。そういう縁もあり、毎年4月2日の光太郎の命日に、東京日比谷で当会が主催して開いている連翹忌の他に、花巻としての連翹忌法要を開催して下さっています。

まずは本堂左手の光太郎碑へ。3基の光太郎碑が固まって建てられています。

建立順に、まずは昭和48年(1973)、光太郎短歌「花巻の松庵寺にて母にあふはははリンゴを食べたまひけり」(昭和22年=1947)を刻んだ歌碑。先述の、母・わかの法要に関わる短歌です。

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続いて、詩「松庵寺」碑。昭和62年(1987)に、詩「松庵寺」(同20年=1945)全文を、光太郎と親交の深かった総合花巻病院長、故・佐藤隆房の揮毫によって碑にして下さいました。

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その「松庵寺」を、花巻市上町の元英語教諭平賀六郎さんが英訳したものの碑。平成20年(2008)の建立です。

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その後、庫裡へ。アポイントは取001っていませんでしたし、第一、当方、ご住職と面識がありませんでしたが、毎年、連翹忌の法要を営んで下さっているお寺ですので、無碍に扱われることもあるまいと、図々しくもお邪魔いたしました。やぶ屋さん同様、光太郎の書き残したものの現物などが残っていないかと、その調査です。

対応して下さった小川隆英ご住職、無碍にどころか、歓待して下さいました。ありがたいかぎりでした。

こちらはビンゴでして、先代の故・小川金英ご住職が、光太郎に書いてもらったという書幅(「真実」と揮毫)、それから、お布施の包み紙(原稿用紙を折りたたんで熨斗袋の代わりにしたものだそうで、これは光太郎終焉の地・中野のアトリエを所有されていた中西家ご子息へのお年玉-右の画像-と同じです)が現存しているそうでした。しかし、最近、こちらに工事が入ったため、その際に置き場所が変わり、現在行方不明ということで、現物は見られませんでした。

その代わり、いろいろなお話を伺うことができました。ご住職、最近、当方自宅兼事務所のある千葉県香取市にいらしたそうで、その話でひとしきり盛り上がりました。ご同輩の方のお寺に行かれたそうで、場所を訊くと、ああ、あのお寺か、というところでした。10時間かけて車でいらしたとのこと、そのバイタリティーには恐れ入りました。当方、千葉から花巻まではさすがに車で行こうとは思いません。

バイタリティーといえば、それもそのはず、このブログでもご紹介しましたが、ご住職、齢74だった一昨年、東日本大震災の犠牲者追悼行脚ということで、花巻・盛岡間往復80㎞を歩かれています。そのあたりのお話もたっぷり伺いました。

その関係の記念碑も建てられたそうで、帰りがけに撮りました。

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また、こちらも一昨年、NHK Eテレさんで放映された「趣味どきっ!女と男の素顔の書 石川九楊の臨書入門 第5回「智恵子、愛と死 自省の「道程」 高村光太郎×智恵子」についても。ナビゲーター役の書家・石川九楊氏と、女優の羽田美智子さんが、松庵寺さんの庫裡で、実技編のロケをなさったとのことでした。


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この番組、当方も少しだけ制作のお手伝いをさせていただいたのですが、あの部分のロケが松庵寺さんだったというのは存じませんでした。ご住職、光太郎の書法を再現する石川氏の筆の動きを間近でご覧になり、いたく感心されたそうです。

ロケの後、石川氏が記念に、光太郎詩「松庵寺」に出てくる「二畳敷」の語を揮毫されたという書。

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「二畳敷」の後の四角の中に縦棒一本は畳二枚を表し、最後は落款的な石川氏のサインだそうです。

その他、さまざまなお話を賜り、気がつけば2時間近く。旅先でのこういう出会いでご縁を結ばせていただけるというのは、実にいいものです。

おみやげに、ご住職のご著書を頂戴してしまいました。1,000ページを超える大著です。題して「あ そうか」。全体の3分の2ほどは、見開き2ページずつ、「法話」というか「講話」というか「説教」というか、教典や先達のお言葉を一つずつ、さらにその解説のような文章で構成されています。これが面白い。肩のこらない表現でわかりやすく、しかし仏の教え的なところの核心をつくような……。光太郎の『ロダンの言葉』を思い起こしました。

俗臭ぷんぷん・煩悩の固まり的な当方としては、これをありがたく拝読して精神修養をはかりたいと存じます(笑)。

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後書き的な「おわりに」より。

 この本の原稿がほぼ出来、表題を何にしようかなと考えていたときだった。六歳の孫娘サラナちゃんがジジチャン何してるの。と、そばに来た。ウン! ジジチャン いま 本の名前考えているんだよ。 この本読んで「あ そうか」と思ってくれるといいんだけどな。と何の気なしにつぶやいたら、孫はそばにあった筆ペンをとり、無邪気に「あ そうか」と紙の切れっ端に書いた。

その「あ そうか」を題名とし、お孫さんの書いた字を題字になさったそうで、我々凡俗とはやはり違うな、と感じました(笑)。

また、詩「松庵寺」についての記述もあり、資料としても貴重です。


その後、郊外旧太田村の花巻高村光太郎記念館さんへ。周辺ではリンゴの花盛りでした。

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開催中の企画展示「光太郎と花巻の湯」を拝見。当方が他で書いた文章をそのまま説明パネルにしてくださっていました。

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当方がお貸しした資料類。さらにそれを基に作成のパネル。

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光太郎の山小屋(高村山荘)に据えられた風呂桶。

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なかなか楽しい展示です。ぜひ足をお運びください。


そして、2泊お世話になる、大沢温泉さんへ。今回は、築160年以上という、別館「菊水館」さんに泊まりました。

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明けて5/15(月)、第60回高村祭。こちらは明日、レポートいたします。


【折々のことば・光太郎】

水色の、青磁色の、雨後霽天の、 あくまで透明の、あくまで一途の、 又うつさうと暗いほど青々した あの土用波ののつぴきならない 積極無道の夏がぷんぷん匂つて来た。

詩「夏書十題 (夜明けのかなかなに)」より
 昭和3年(1928) 光太郎46歳

生涯「冬」を愛した光太郎。対極に位置する「夏」を「無道」とまで表現しています。そんなに目の敵にしなくても……と思うのですが(笑)。