昨日は、日帰りで信州に行っておりました。目的は、安曇野の碌山美術館さんで開催された、第107回碌山忌。光太郎の朋友・碌山荻原守衛の忌日の集いでした。
同館にお邪魔する際には、同じ方向にある、光太郎ゆかりの人物関わりの文学館や美術館にも立ち寄ることにしておりまして、昨日は、塩尻市古田晁記念館さんを訪れました。
朝、7時30分に愛車を駆って自宅兼事務所を出発。そちら方面に行く際、これまでは東関道、首都高、中央道、長野道と乗り継ぐパターンでしたが、少し違うルートを通ってみました。土曜日でしたので、首都高から中央道に入ってしばらくは渋滞していることが予想されましたし、先月、圏央道の北関東部分がすべてつながりましたので、そちらを走ってみました。

距離的には大回りになりますが、首都高から中央道に入ってしばらくの渋滞を考えると、時間的にはそう変わらないかな、と思った次第です。同じくらいの時間なら、距離が長くても渋滞していない方を採りたいと思いました。案の定、八王子JCTから中央道に入り、山梨県に入るまでは順調でした。ところが、勝沼インター手前で、大型トラックが炎上したとのことで、大月あたりから15㎞ほど渋滞、通過に1時間半くらいかかりました。
遠出の際に時折あるのですが、こうなると手も足も出ません。改めて自分がそういう原因を作らないよう、運転には注意しようと思いました。
双葉SAで昼食後、岡谷JCTから長野道に入り、目指す古田晃記念館さん最寄りの塩尻インターで下車。まだ桜が満開でしたし、趣のある大きな神社などもあって、余裕があればぶらぶら散策したかったのですが、予想外の時間ロスがあったため、そうもいきませんで、残念でした。
ほどなく古田晃記念館さんに到着。



『高村光太郎全集』を刊行した、筑摩書房さんの創業者・古田晃の旧宅です。昭和初期の建築だそうですが、国の登録有形文化財の指定を受けています。
『高村光太郎全集』は、光太郎没後の刊行ですが、生前から光太郎の選詩集的なものが同社から刊行されています。昭和28年(1953)には、中山義秀解説による『道程・典型 現代日本名詩選』。同29年(1954)には『現代日本文学全集24 高村光太郎集 萩原朔太郎集 宮澤賢治集』。また、『展望』など、同社刊行の雑誌に光太郎はたびたび寄稿していました。


そうした関係があり、古田はたびたび光太郎終焉の地・中野のアトリエを訪れ、光太郎日記にその名が記されています。また、光太郎と交流の深かった、当会の祖・草野心平とはさらに縁が深く、心平が経営していた居酒屋「火の車」の常連で、心平や、「火の車」の板前だった橋本千代吉の回想に、その破天荒な酒豪ぶりが詳述されています。
さて、記念館。


土蔵の1階部分が展示スペースになっていました。古田自身の書き残したもの、交流の深かった人物からの書簡や原稿、そしてそれぞれの肖像写真などが展示されています。
当会の祖・草野心平の油絵や原稿、書簡なども。


太宰の葬儀に際し、古田が読んだ弔辞の原稿。

高田博厚作の光太郎胸像。



こちらのものは、古田が社長室に飾っていたものだそうで、そのエピソードは存じませんでした。
もしかすると、光太郎からの書簡や書の揮毫などがあるかと期待していたのですが、それはありませんでした。
二階は三間続きの座敷。

窓から見える、母屋へと続く渡り廊下。

こちらは土・日・祝日のみの開館。ただし雪深い冬期は閉鎖です。ありがたいことに入館無料。ぜひ足をお運びください。
こちらを後に、再び愛車を駆って、安曇野碌山美術館さんへ。そちらは明日、レポートいたします。
【折々のことば・光太郎】
どうせ死ぬ首の中に死なないものがある。 どうせ死ぬものがそのまま、 死なないものに見えてくる。
詩「偶作十五篇」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳
ここでの「首」は、光太郎が肖像彫刻としてあつかった人々のことでしょう。彫刻作品になることで、永遠の命が吹き込まれ、死なない首への変貌がおこります。古田晃記念館さんで見た光太郎の首、それから明日レポートしますが、碌山美術館さんで見たさまざまな首から、そう思いました。