去る2日、東京日比谷松本楼さんでの当会主催連翹忌以外でも、光太郎第二の故郷と言うべき岩手花巻で、花巻としての連翹忌の催しが行われました。午前中は光太郎の暮らした郊外旧太田村の山小屋(高村山荘)敷地内での詩碑前祭、午後は市街双葉町の松庵寺さんでの法要。このうち、詩碑前祭の方が地元で報道されています。

IBC岩手放送さんのニュース。

記念碑前で詩を朗読 高村光太郎の遺徳偲ぶ/岩手・花巻市

 2日は岩手ゆかりの詩人で彫刻家、高村光太郎の六十二回忌です。ゆかりの地、花巻では地域の人たちが記念碑を前に、詩を朗読して遺徳を偲びました。
 東京都出身の高村光太郎は、1945年に戦火を逃れて花巻に疎開し、7年間を過ごしました。光太郎の顕彰活動を行っている、花巻市の高村記念会は毎年、命日に記念碑の前で遺徳を偲んでいます。2日は地域住民の代表や子どもたちが詩を朗読。岩手の自然に向けられた温かな眼差しや先立った妻、智恵子への深い愛情など、作品の魅力を改めて味わっていました。

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テレビ岩手さん。

高村光太郎に思いはせ… 命日に詩碑前祭

空襲で東京のアトリエを失った1945年から7年間、現在の花巻市太田地区に疎開していた高村光太郎。命日の4月2日は、生前に愛した早春の花・レンギョウにちなみ「連翹忌」と呼ばれています。62回忌にあたる2日は地域住民約50人が光太郎の詩碑の前に集まり「山のひろば」「雪白く積めり」など7編の詩を朗読しました。朗読のあと参加者は詩碑に向かって静かに手を合わせ光太郎の遺徳を偲んでいました。

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どちらもネット上に動画が公開されていました。拝見してうるっときてしまいました。テレビ岩手さんの動画はPCに保存できました。


続いて地方紙『岩手日日』さん。

語り継ぐ 記憶、功績 光太郎詩碑前祭 朗読に感謝込める

 花巻ゆかりの詩人、彫刻家の高村光太郎(1883~1956年)の命日にあたる2日、花巻市太田の高村山荘敷地内広場で「詩碑前祭」が行われた。太平洋戦争で花巻に疎開した光太郎が居を構えた太田山口地区の住民が、詩碑に花を捧げ詩を朗読して光太郎の遺徳をしのび、感謝の気持ちをささげた。
 山関、上太田両行政区住民でつくる高村記念会山口支部(照井康徳支部長)が命日に合わせ、詩「雪白く積めり」が刻まれた石碑の前で毎年実施。同支部の関係者や地区住民ら約50人が参加した。
 照井支部長のあいさつに続き、太田小学校1年の高橋文耶君と照井和奏さんが遺影が飾られた詩碑に献花。同支部の平賀仁理事が「厳しい自然の中に先生は7年間住み、自然をたたえ、詩に歌い、私たちに数々の教えを注いでくださった。大切な教えは毎日の生活の中で、明日への大きな希望となって心を豊かにしてくださっている」と祭文を読み上げた。
 太田小、西南中に通う上太田子供会の児童生徒9人が「山の広場」と「山口部落」「山からの贈り物」の光太郎の詩3作品を声高らかに朗読。地区の住民代表が「雪白く積めり」と「大地麗し」「案内」「岩手の人」の4作品をそれぞれ披露し、太田小との統合で約50年前に閉校した旧山口小学校の校歌も斉唱し締めくくった。
 光太郎は1945年の空襲で東京のアトリエを失い、親交のあった詩人で童話作家の宮沢賢治の実家に疎開した。終戦後は旧大田村山口の小屋で7年間暮らし、多くの作品を発表。住民とも交流を深めた。
 今詩碑前祭は62回忌。照井支部長は「高村先生が東京に戻られた時、私は3歳でずいぶん大きい人だなという印象しかない。先生を知る人間が本当に少なくなっているが、みんなで勉強し、先生の功績を後世に残していきたい」と気を引き締めた。


連翹忌、東京でも永続的に開催するつもりです。花巻でもできる限り続けていっていただきたいものです。


【折々のことば・光太郎】

詩を書くと腹が立つ、 腹が立つから詩を書くのだ。 詩を書くと笑ひ出す、 笑ひがこみ上げるから詩を書くのだ。

詩「懐ふ」より 昭和2年(1927) 光太郎45歳

「腹が立つから詩を書く」、「笑ひがこみ上げるから詩を書く」、対極に位置します。「いったいどっちなんだよ」と突っ込みたくなりますが、どっちもなのでしょう。

客観描写に徹するべき彫刻に、主観的な文学的感傷、己の内面の喜怒哀楽が入り込まないよう、そういった部分は詩として(初期には短歌として)吐き出していた光太郎。まさに詩は喜怒哀楽の表出だったわけです。

題名の「懐ふ」は「おもう」と読みます。