0014月2日の第61回連翹忌が近づいて参りました。

当方が編集・発行している冊子『光太郎資料』、年2回のうち、1回は連翹忌にあわせて発行しています(もう1回は半年後の智恵子忌日・レモンの日に合わせています)。

元々は当会顧問の北川太一先生が昭和35年(1960)から平成5年(1993)にかけ、不定期に発行されていたもので、当方、5年前にその名跡を譲り受けました。

というわけで、第47集、頼んでおいた印刷が完了し、印刷屋さんから受け取って参りました。印刷のみ印刷屋さんにお願いし、ページ順に並び替える丁合という作業、その後のホチキス留めはすべて手作業でやっております(そこまで頼むと料金がさらにかかりますので)。

当方編集に移行してから11冊目の発行となりました。毎号ほぼ同一の章立てで、後世に残すべき光太郎関連の文字資料を様々な角度から載せております。

今回は

光太郎遺珠から 第11回 詩人として(四) 戦後・晩年
 ・昭和21年(1946) 松本政治宛書簡
 ・同24年(1949) 肥後道子宛書簡
 ・同25年(1950) 池田克己宛書簡 2通
 ・同 三宅正太郎宛書簡 2通
 ・同26年(1951) 雑纂「賞を受けて」
 ・同 川路柳虹宛書簡
 ・同27年(1952) 雑纂「“詩だけはやめぬ”」

筑摩書房の『高村光太郎全集』完結(平成11年=1999)後、新たに見つかり続けている光太郎文筆作品類をテーマ、時期別にまとめています。

ちなみに上記にお名前のある肥後道子さん、その後ご結婚なさって姓が変わりましたが、十数年ぶりに今年の連翹忌にご参加くださるそうです。この書簡の思い出を語っていただこうと思っております。


光太郎回想・訪問記   白い手の記憶―高村光太郎の思い出― 堀口大学 / 『パアゴラ』より 斎藤玉男

光太郎と同時代の人々が残した光太郎回想も貴重な記録ですので、それらの集成も図っています。今回は詩人の堀口大学と、智恵子の主治医だったゼームス坂病院長・斎藤玉男のもの。それぞれに、これまでこの世界で知られていなかった(と思われる)新事実が語られています。

堀口に関しては、海外生活が長かった堀口が、ロダン関係の文献、逐次刊行物等を日本の光太郎に送っていたということなど。斎藤に関しては、智恵子の診察を引き受けるに至った経緯など。ただ、当人の述懐ですので、鵜呑みにするのも危険ですが。


光雲談話筆記集成 「因縁に感謝」 『仰高』より

光太郎の父・高村光雲は、『光雲懐古談』(昭和4年=1929)という長文の回顧録を一冊残していますが、それ以外にもさまざまなメディアに短文の回想を発表しています。それらも集成しておく必要があります。今回は、光雲ゆかりの金龍山大圓寺の発行になる『仰高』という冊子から。


昔の絵葉書で巡る光太郎紀行 第十一回 花巻電鉄 (岩手)

光太郎ゆかりの地の古絵葉書が少なからず手に入っており、それらの地と光太郎智恵子らの縁を綴っています。今回は、光太郎もよく利用した花巻電鉄を扱いました。

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音楽・レコードに見る光太郎   「新穀感謝の歌」(その三)

昭和16年(1941)、信時潔の作曲で歌曲となった光太郎作詞の「新穀感謝の歌」に関して。歌曲以外にも二世観世喜之節附による謡曲も作られ、同年と翌年に、財団法人日本文化中央聯盟主催の「新穀感謝祭奉献能の会」で演じられたことなどを書きました。

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光太郎詩に曲が附けられた音楽作品は少なからず存在しますが、それらの作曲の経緯、演奏の実態など、従前の研究ではほとんど手がつけられていません。このあたりもライフワークとしていくつもりでおります。


高村光太郎初出索引(十一)

発表された光太郎の文筆作品、装幀・挿画などの作品を、掲載誌の題名50音順に表にまとめています。


B5判、全50ページ。手作りの冊子ですが、ご入用の方にはお頒けいたします。一金10,000円也をお支払いいただければ、年2回、永続的にお送りいたします(連翹忌ご参加の場合は、4月発行分は進呈)。このブログ左上プロフィール欄に記載の連絡先までご連絡ください。


【折々のことば・光太郎】

暖炉に入れる石炭が無くなっても、 鯰よ、 お前は氷の下でむしろ莫大な夢を食ふか。
詩「鯰」より 大正15年(1926) 光太郎44歳

木彫の代表作の一つ、「鯰」に関する詩です。下の画像は光太郎令甥・髙村規氏によるものです。

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昨日ご紹介した詩「金」では、粘土の凍結を防ぐため「夕方の台所が如何に淋しからうとも、 石炭は焚かうね。」としていた光太郎ですが、その石炭も無くなると、では、木彫なら、ということでしょうか。これも危険な考えですね……。