日曜日に拝見して参りました、小平市平櫛田中彫刻美術館さんの特別展「ロダン没後100年 ロダンと近代日本彫刻」。図録が販売されていましたので購入して参りました。A4判158ページ、なかなか充実した図録でした。

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作品図版は展覧会の構成に従い、「生命の芸術」、「不完全の美」、「手(Hand)」、「醜の中の美」、「群像表現」、「アッサンブラージュ」、「変貌するロダニズム」、「あとに続く作家たち」、「人体構造の追求―ロダン《バルザック》と平櫛田中《鏡獅子試作裸像》との比較から」、「ロダンへの反発」、「リプロデュースとマケット―ロダン《地獄の門》を中心に―」の、それぞれの小題にまとめられています。

その後に出品作家のプロフィール。さらに関連論文。

まずは日曜日に開催された関連行事の美術講座「ロダンと近代日本彫刻」の講師で、今回の特別展の中心と成られた同館学芸員・藤井明氏の「荻原守衛帰国以前の国内におけるロダン受容について」。

ロダン本人から「あなたは私の弟子だ」とお墨付きをもらった荻原守衛が、海外留学から帰国したのは明治41年(1908)。それ以降、日本国内でロダンの名が浸透していきますが、それ以前のロダン受容に的を絞った考察です。どうも東京美術学校関係者に限定される形で、かなり早い時期からロダンの存在が知られていたことが紹介されています。

明治23年(1890)に、同校で岡倉天心が行った講義「泰西美術史」の中に、既にその名が見えています。そして、同38年(1905)、海外留学に出る前年の光太郎が、雑誌『日本美術』に発表した「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハネ」」という評論を大きく取り上げて下さっています。『高村光太郎全集』第7巻に収録されていますが、当方、その存在を失念していました。『日本美術』では、「ヨハ子」と表記されていますが、これは変体仮名的な表記で「子」は「ネ」。十二支の「子・丑・寅・卯・辰・巳」の「子」です。明治末年にはまだ仮名表記も確立していません。したがって、『高村光太郎全集』では、仮名とみなして「ヨハネ」の表記を採っています。

余談になりますが、光太郎、仮名の「し」も、時折、変体仮名的に「志」で表す時がありました。「しま志た」のように。こういったケースも、『高村光太郎全集』では仮名表記と見なし、通常の「し」に置き換えています。

余談ついでにもう一つ。この評論はロダン出世作の「青銅時代」に続く大作「洗礼者ヨハネ」(明治13年=1880)を紹介するものですが、この「洗礼者ヨハネ」、光太郎晩年の「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」との関連が夙に指摘されています。すなわち、それぞれこういうポーズをとった場合に、上がるはずの後ろ足の踵が上がっていない点です。これが上がっていると、見た目には非常に不安定になります。具象彫刻として一般的な技法なのかもしれませんが。

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閑話休題。この評論が、一般向けにロダンを国内で紹介した最も早い例だというので、驚きました。これまで、ロダン受容を論じる論文等で、この評論がほとんど紹介されてこなかったそうで、そういわれてみればそうだな、という感じでした。そこで当方も、この評論の存在を失念していました。

続いて、今週土曜日に関連行事として講演「歿後100年。本当のロダンをご存知ですか?」をなさる日本大学芸術学部の髙橋幸次教授の「ロダンとは誰なのか、そして何なのか」。端的にまとめられたロダン評伝で、手っ取り早くロダンその人を知るにはもってこいです。

さらに、静岡県立美術館学芸員の南美幸氏の「フランスにおける日本人のロダン作品体験 1900年~1918年―文献からの分析・整理」。荻原守衛、光太郎ら12人の日本人芸術家が、フランスで実際に見たであろうロダン作品の一覧を表にしています。面白い試みだと思いました。しかし、光太郎に関しては、参照されている文献が少なく、実際に光太郎が見たとされているのは「ジャン=ポール・ローランスの胸像」のみ。疑念が残ります。

そして、いつもお世話になっている碌山美術館の武井敏学芸員による「笹村草家人のロダン感」。笹村は師の石井鶴三ともども荻原守衛や光太郎に私淑し、戦後、花巻郊外太田村の山小屋に隠遁中の光太郎を訪ねたりもしている彫刻家で、興味深く拝読しました。

資料編として、「ロダン年譜」、「ロダンと日本 関連年譜」、光太郎の「アウグスト ロダン作「バプテスマのヨハ子」全文、さまざまな彫刻家のロダン評などの抜粋「ロダンへの言葉」、「参考文献」。

実に充実の内容で、これで2,000円は超お買い得です(笑)。

同展は3月12日(日)までの開催。ぜひ足をお運びの上、図録もご購入下さい。


【折々のことば・光太郎】

ロダンを嫌ふのが 進んだ人人の合言葉。 今こそ心置きなく あのロダンを讃嘆しよう。

「とげとげなエピグラム」より 大正12年(1923) 光太郎41歳

王道を歩く者は、王道を歩くがゆえに批判に晒されることが多々あります。ロダンも例外ではありませんでした。その地位が確立した後は、もはやロダンは古い、と。そして、その手の王道批判こそが知識人の証しのように考えられることがありますね。

そんな中で、あえて「あのロダンを讃嘆しよう」とする光太郎。軽佻浮薄な批判には与しないと宣言しているわけです。ただ、光太郎のロダン崇拝も、猿まね的なものや、狂信的・盲従的なものではなく、尊敬はするが、自分の北極星は彼とは別の所にある、としています。また、光太郎は彫刻のロダン以外にも、文学方面のロマン・ロランやホイットマンなど、ある意味同じように王道を歩みながら、それゆえ批判にもさらされる先達に対して同様の発言をしています。いずれまたそういう文言を紹介します。

ところで、光太郎自身もそういう憂き目にあっていますね。「光太郎は古い」と。生前もそうでしたし、現代においてもです。最近も、昨年発行された雑誌に載った辛口の批評で知られる文芸評論家のセンセイの光太郎批判が、今年になってある新書におさめられたようです。そこには全くといっていいほど、光太郎ら、そこで取り上げている人物に対するリスペクトの念が読み取れません。さらに云うなら、リスペクトの念がないから詳しく調べるということもしないのでしょう、出版事情等に関し、事実誤認だらけです。そういうものはこのブログではご紹介していません。あしからず。