一昨日の『毎日新聞』さん。俳人の坪内稔典氏による連載コラム「季語刻々」で、光太郎の句を取り上げて下さいました。

季語刻々 春の水小さき溝を流れけり 高村光太郎

溝を流れる水、その水に春の明るさ、勢いを感じたのだろう。1909年、イタリアを旅した折の句。溝の春の水から光太郎は日本の春を感じたのかもしれない。詩集「道程」に次の一節がある。「猿の様な、狐(きつね)の様な、ももんがあの様な、だぼはぜの様な、麦魚(めだか)の様な、鬼瓦の様な、茶碗(ちゃわん)のかけらの様な日本人」。自虐的だが、そうだとも思う。<坪内稔典>

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以前からこのコラムで光太郎の名を出していただき、その都度ご紹介して参りました。ただ、それら全て光太郎の名は、光太郎以外の作品の鑑賞文に使われていました。今回は光太郎そのものの句ということで、尚更ありがたいところです。


昨年のこのブログでは、366日間(閏年でしたので)、光太郎の短歌や俳句などを【折々の歌と句・光太郎】ということで一つずつご紹介して参りました。この句も4月5日にご紹介していました。

改めてそれを読んでみたところ、「あれっ」と思いました。「春の水小さき溝を流れけり」ではなく、「春の水小さき溝を流れたり」となっています。「やらかしたかぁ」と思い、『高村光太郎全集』を調べてみました。

すると、そうではなかったことが判明し、胸をなで下ろしました。といっても、坪内氏がやらかしたわけでもありません。どちらも正解でした。


全集第11巻には「春の水小さき溝を流れけり」の形で掲載されています。出典は明治45年(1912)発行の雑誌『趣味』第6年第2号に掲載された「伊太利遍歴」というエッセイです。イタリア旅行中の見聞録の合間に、この句を含む33句が挟み込まれています。坪内氏はこの形を引用されたわけです。

ところが、オリジナルの形は、留学生仲間だった画家の津田青楓にイタリアからリアルタイムで書き送った書簡で、そちらは「春の水小さき溝を流れたり」となっており、異稿として全集第19巻に掲載されています。当方、原型ということでこちらを引用しました。


「たり」から「けり」への変更が、どのようにして起こったのかは不明です。考えられるのは、以下の通り。

① 「伊太利遍歴」執筆に際し、「たり」より「けり」の方がしっくり来る、と考えた光太郎自身が意図的に改変した。
② 「伊太利遍歴」執筆に際し、「たり」であった原型がうろ覚えで、意図せずして「けり」に変わってしまった。
③ 「伊太利遍歴」掲載時に、光太郎の原稿は「たり」であったにも関わらず、「けり」と誤植されてしまった。

可能性として高いのは、①か②だと思います。他にも「伊太利遍歴」と、津田らに送った書簡で表記が異なる句は複数有ります。短歌や俳句は詠みすてで、いちいち書き留めておくことはしない、というのが光太郎のスタンスでしたし、②が最もありえるかな、と思われます。

ちなみに、古典文法としては、「たり」は「完了」(~た、~てしまう、~てしまった、)、「存続」(~ている、~ていた、~てある、~てあった)、「けり」は「伝聞した過去(~た)」、会話文や和歌で使われる場合には「詠嘆」(~よ、~なあ)と訳します。いわずもがなですが、どちらも助動詞です。

説話、物語などでは「今は昔……」というわけで、伝え聞いた過去の話ですよ、となり、「けり」が使われます。

今は昔、竹取の翁といふ者ありけり。(「竹取物語」)

 いづれの御時にか。女御、 更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いとやんごとなき際にはあらぬが すぐれて時めき給ふありけり。(「源氏物語」)


俳句の場合、「けり」は「や」「かな」などとともに「切れ字」として使われ、古語の「詠嘆」の用法の流れを汲んでいます。時折、単に「五・七・五」にするためだけに使っているんじゃないか、という作にも出くわしますが(笑)。

したがって、「春の水小さき溝を流れけり」ときたら、「春の水が小さい溝を流れているなあ」となり、「春の水小さき溝を流れたり」の場合は、単純に「春の水が小さい溝を流れている」となりましょうか。

すると「けり」の方が、感慨が表面的となり、こちらの方がいいかも、という気はします。すると上記①、光太郎、意図的に改変した説が有力にも思えます。今となっては真相は藪の中ですが……。それにしても上記③、編集者の誤植、というケースだけは有って欲しくないものです(笑)。


【折々のことば・光太郎】

有り余る虚無だ 獅子と駝鳥の楽園だ 万軍の神の天幕だ 沙漠、沙漠、沙漠、沙漠 ひそかにかけめぐる私の魂の避難所だ

詩「沙漠」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

やがて来る「猛獣篇」時代へのプレリュード的な匂いがします。「猛獣篇」は、社会の矛盾などに対する怒りを、さまざまな猛獣(時に架空のモンスター)などに仮託して表出した連作詩で、その第一作は3年後の大正14年(1925)に書かれた「清廉」という詩でした。モチーフは妖怪「かまいたち」。

その後、「獅子」を題材とした「傷をなめる獅子」(同)、「駝鳥」を謳った「ぼろぼろな駝鳥」(昭和3年=1928)なども作られます。しかし、大正11年(1922)の段階でその原型は出来ていたわけで、「ローマは一日にして成らず」という感があります(ちょっと違いますかね(笑))。