昨日ご紹介した、土田昇氏著・みすず書房刊『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』を読み、改めて光太郎が木彫に際して使用した刃物類について、調べてみました。

光太郎自身が書き残した文章には、実は自分の使っている道具類についての記述はあまり多くありません。その中で、最も詳しく書かれているのが、昭和12年(1937)に書かれた「小刀の味」、及び同25年(1950)執筆の「信親と鳴滝」です。

まず、刃物類全般について。

 飛行家が飛行機を愛し、機械工が機械を愛撫するやうに、技術家は何によらず自分の使用する道具を酷愛するやうになる。われわれ彫刻家が木彫の道具、殊に小刀(こがたな)を大切にし、まるで生き物のやうに此を愛惜する様は人の想像以上であるかも知れない。幾十本の小刀を所持してゐても、その一本一本の癖や調子や能力を事こまかに心得て居り、それが今現にどうなつてゐるかをいつでも心に思ひ浮べる事が出来、為事する時に当つては、殆ど本能的に必要に応じてその中の一本を選びとる。前に並べた小刀の中から或る一本を選ぶにしても、大抵は眼で見るよりも先に指さきがその小刀の柄に触れてそれを探りあてる。小刀の長さ、太さ、円さ、重さ、つまり手触りで自然とわかる。ピヤニストの指がまるでひとりでのやうに鍵をたたくのに似てゐる。桐の道具箱の引出の中に並んだ小刀を一本ずつ叮嚀に、洗ひぬいた軟い白木綿で拭きながら、かすかに錆どめの沈丁油の匂をかぐ時は甚だ快い。(「小刀の味」)

 あたりまへの事だが、美術家にとつて一番大切なのは道具である。画家の筆墨、彫刻家の鑿や小刀、これは命から二番目といひたい。
(略)
 私にとつて彫刻の道具はこの世で最も神聖なものであり、又最愛の伴侶である。他の一切のものから聖別された此のものは、どんなことがあつても身を以て護り通さねばならない。形勢がいつ爆撃をうけるか分からなくなつた時、私は亡父の形見の道具箱に(これには小刀類が充満してゐたが)細引をかけて、どう持つても抽出のすべり出さないやうにした。いちばん手馴れて別れ難いノミや小刀の最小限度十五六本は別に毛布にくるみ、これも亡父譲りの砥石二丁と一緒に大きな敷布に厚く包んで、これを丈夫な真田紐で堅固にゆはへ、重さ二貫目弱であつたが、空襲警報の鳴るたびに肩にかけ、腰に飯盒をぶらさげて、防火用のバケツと鳶口とを手に持つて往来に飛び出したのであつた。昭和二十年四月十三日の大空襲で遂に駒込林町のアトリエが焼けた時、私はとりあへず近所の空地にかねて掘つてあつた待避壕の中へ避難したが、そこへ持ちこんだのは夜具蒲団の大きな包二つと、外には例の道具箱と、肩からかけた敷布にくるんだ小刀と砥石とだけであつた。眼の前でアトリエは焼けおち、中にあつた蔵書と作品とはみるみる火に包まれてしまつたが、何だか惜しい気も起らず、むしろさつぱりした感じで、ただひたすら此の道具がありさへすればといふ考のみが頭をつよく占めてゐた。古いがらくたや、古い製作など、どしどし燃してしまへと、これらの道具がいつてゐるやうにさへ思へた。
 その後、道具類と夜具蒲団とは、一旦利根河畔の取手町にある宮崎稔氏の宅に運び、更に取手駅から岩手県花巻町の故宮澤賢治の実家に送られ、その実家が戦火に焼かれた後、転々して、今はこの太田村山口の山小屋に落ちついたといふ次第である。私は今でもその道具箱と砥石をいつでも持ち出せる待機の状態に置いてゐる。山に頻々と起る山火事をおそれての事だ。(「信親と鳴滝」)

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この刃物類のうち、光太郎が特にお気に入りだったのは、幕末から明治にかけての鍛冶職人・栗原信親(のぶちか)の作品でした。

信親は嘉永2年(1849)、現在の千葉県白井市近辺の生まれ。ちなみに光太郎の父・光雲は嘉永5年(1852)の生まれです。刀工として名高かった栗原信秀の弟子となり、明治に入ってから師匠の娘と結婚して婿養子となりました。明治12年(1879)には、後の大正天皇である嘉仁親王の生誕を祝し、自ら打った刀を献上するなどしています。しかし、同9年(1876)に出された廃刀令の影響はいかんともしがたく、やがて彫刻刀の制作に転身しました。
この点、昨日ご紹介した千代鶴是秀と似ています。同じく刀工の家系だった是秀は鑿や鉋などの大工道具を主に扱うようになりました。

光太郎の信親評は以下の通り。

 わたくしの子供の頃には小刀打の名工が二人ばかり居て彫刻家仲間に珍重されてゐた。切出(きりだし)の信親(のぶちか)。丸刀(ぐわんたう)の丸山(まるやま)。切出といふのは鉛筆削りなどに使ふ、斜に刃のついてゐる形の小刀であり、丸刀といふのは円い溝の形をした突いて彫る小刀である。当時普通に用ゐられてゐた小刀は大抵宗重(むねしげ)といふ銘がうつてあつて、此は大量生産されたものであるが、信親、丸山などになると数が少いので高い価を払つて争つてやつと買ひ求めたものである。此は例へば東郷ハガネのやうな既成の鋼鉄を用ゐず、極めて原始的な玉鋼(たまはがね)と称する荒がねを小さな鞴で焼いては鍛へ、焼いては鍛へ、幾十遍も折り重ねて鍛へ上げた鋼を刃に用ゐたもので、研ぎ上げて見ると、普通のもののやうに、ぴかぴかとか、きらきらとかいふやうな光り方はせず、むしろ少し白つぽく、ほのかに霞んだやうな、含んだやうな、静かな朝の海の上でも見るやうな、底に沈んだ光り方をする。光を葆(つつ)んでゐる。さうしてまつ平らに研ぎすまされた面の中には見えるやうな見えないやうなキメがあつて、やはらかであたたかく、まるで息でもしてゐるかと思はれるけはひがする。同じそさういふ妙味のあるうちにも信親のは刃金が薄くて地金があつい。地金の軟かさと刃金の硬さとが不可言の調和を持つてゐて、いかにもあく抜けのした、品位のある様子をしてゐる。当時いやに刃金のあつい、普通のぴかぴか光る切出を持たされると、子供ながらに変に重くるしく、かちかちしてゐてうんざりした事をおぼえてゐる。丸山のは刃金があついのであるが、此は丸刀である性質上、そのあついのが又甚だ好適なのであった。
 為事場の板の間に座蒲団を敷き、前に研ぎ板を、向うに研水桶(とみづをけ)(小判桶)を置き、さて静かに胡坐をかいて膝に膝当てをはめ、膝の下にかつた押え棒で、ほん山の合せ研を押へて、一心にかういふ名工の打つた小刀を研ぎ終り、その切味の微妙さを檜の板で試みる時はまつたくたのしい
。(「小刀の味」)

 ノミや小刀は亡父遺愛のものはもとより、私自身で求めたものでも、もう今日では入手不可能のやうな、すばらしい利刀ばかりである。日清役から日露役へかけての時代までは生きてゐた昔の伝統に従つて、当時の鍛工が玉鋼で鍛へたノミや小刀類の切味はちよつと言葉ではいひ表はせない。中でも信親(のぶちか)といふ鍛工のうつた切出(きりだし)(鰹節を削る小刀のやうな形をしたもの)の如きは実に物凄いといひたくなる。第一その形がいい。小刀の表といふのは黒い背の方だが、その地金の黒い、ねばり強いやうな肌といひ、両側を斜めに削つてあるその削り度合の釣合といひ、見るからに名刀の品格を備へてゐる。元来小刀やノミは地金で大体の形をつくり上げ、その裏に鋼の板を焼きつけて、これが刀となるのであるが、この地金と鋼との厚さの釣り合、硬さの釣合、さういふものが切味に大影響を持つてゐる。鍛工によつてそれがそれぞれ違ふので、おのおの独特の持味が出てくるわけである。信親といふ鍛工のは地金も割に軟く、鋼も薄く出来てゐる。砥石でとぐと、地金がやはらかくおりて、黒雲のやうな研水が出る。地金のおりる勢で、鋼の刃先がぴたりと研げる。みると地金の刃面(はづら)の先に真一文字にうすく鋼の刃が白く光つて、いかにも落ちついてゐる。裏をかへして刃裏をみれば、もちろん全面が鋼で、ただまつ平に鏡のやうに光つてゐる。その光りかたが煙つてゐる。少し白ばんで、むらむらと霧がかかつてゐるやうで、ただやたらにぴかぴかとは光つてゐない。鍛へる時に打ちかへした鋼の層によつて出来る木目(もくめ)が見えるやうな見えないやうな工合にかすかにある。もう随分昔から研いでは使つたので、中には始め五六寸の長さであつた小刀が次第に短くなつて、一番もとの地金ばかりの裏に刻印してある信親といふ銘が小刀の柄から出てきてしまつたのもある。かうなると尚更大切なやうな気がする。(「信親と鳴滝」)

実に手放しの褒めようです。そして、このような名工の作った名品を、このように表現できる光太郎の力量にも注目せざるを得ないでしょう。まさに「鬼に金棒」。決して「猫に小判」ではないわけです。

その他、「信親と鳴滝」では、京都鳴滝産の砥石についても紹介されていますが、割愛します。

信親以外に光太郎が使用していた名工の作というと、「卍正次」と称された宮内省御用刀工にして、光雲と同じく帝室技芸員だった桜井正次(まさつぐ)の鑿があり、大正15年(1926)の短歌に謳われています。

 正次がうちし平鑿くろがねのうら砥ふまへて幾夜わが砥ぐ

残念ながら、是秀作の鑿ないしは彫刻刀を実用していたという記述は、『高村光太郎全集』には見あたりません。しかし、書簡のやりとりや、信親の娘婿が石膏取り師の牛越誠夫で、光太郎と交流があったこと(最後の大作・「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」の石膏取りは牛越が担当しました)、光太郎と親しかった光雲高弟の平櫛田中が是秀の作を使っていたことなどから、その可能性は高いと思われます。

しかし、『職人の近代――道具鍛冶千代鶴是秀の変容』中の、是秀の注文受け帖に関する項には、光太郎の名が出て来ません。まぁ、光太郎が直接是秀に注文しなくとも、販売店を通して購入することが可能だったので、そのあたりなのでは、と推測しています。

下記はほとんど唯一、光太郎が木彫制作中の写真。もしかすると、手に持っている刃物が是秀作かも知れません。

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信親、正次、是秀など、光太郎と道具について、今後の究明課題として気に留めておこうと思いました。


【折々のことば・光太郎】

この一人の彫刻の徒弟は、 あの金髪の美少年と笑みかはす、 生きて動く兎のやうな十七の娘のからだを 嫉妬に似た讃嘆に心をふるはせながら、 今粘土を手に取つて、 喰べるやうに見るのである、 見るのである。

詩「五月のアトリエ」より 大正11年(1922) 光太郎40歳

木彫ではなく、塑像制作中の一コマです。「金髪の美少年」は五月の陽光の比喩、「十七の娘」は彫刻のモデルです。

五官全てを触覚に還元する光太郎、若さにあふれたモデル娘が放つ生命力の躍動を、まさしく喰べるように見ています。