現在発売中の雑誌『東京人』(都市出版)で、智恵子がその表紙絵を描いた雑誌『青鞜』および主幹の平塚らいてうが取り上げられています。

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昨年、日比谷の国立公文書館さんで開催された展覧会「平成28年秋の特別展 時代を超えて輝く女性たち」の関連行事として行われた、元タウン誌『谷中根津千駄木』編集長で作家の森まゆみさんの講演「女性解放のあけぼの―「青鞜」と平塚らいてう―」をまとめたものです。

全7ページ。本文に智恵子は出て来ませんでしたが、『青鞜』創刊号の表紙画像に添えられたキャプションでは触れて下さっています。

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さらに明治45年(1912)、大森で開かれた青鞜社の新年会の写真。智恵子が中央で写っています。右から二人目がらいてうです。

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締めの部分が以下の通り。

 明治、大正、昭和という激動の時代を、「青鞜」を囲むようにして生きた女性たちは、自らを偽ることなく、個としての確立をめざした。たくさんの女性たちの苦闘によって、今の私たちの権利、女性の自由があるのだということをきちんと心に刻みたい。

その通りですね。

また、こんな一節も。

 八十代まで長生きしたらいてうの陰に、たくさんの病気や生活苦で亡くなった関係者、自殺をした人もいたことを忘れたくない。

その中の一人が、智恵子だったというわけですね。


大きな書店さんなら店頭に並んでいます。ぜひお買い求めを。


【折々のことば・光太郎】

死に背け 死の面上に拳(こぶし)を与へよ 死に降服する事なく ひたすらに生きよ 死はただ空洞(うつろ)である 死はただ敗残である

詩「瀕死の人に与ふ」より 大正3年(1914) 光太郎32歳

謳われているのは、光太郎と共に『明星』に依った歌人・平出修。弁護士でもあり、大逆事件の際には幸徳秋水らの弁護に立ちました。

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前列左から二人目が平出、後列左から二人目が光太郎、前列右端が与謝野鉄幹。明治37年(1904)の撮影です。

この10年後、平出は数え37歳の若さで病没。そのいまわの際に光太郎が詩「瀕死の人に与ふ」を作りました。しかし、その願いも虚しく、この詩が書かれた3日後に平出は帰らぬ人となりました。