光太郎が昭和20年(1945)から、足かけ8年を過ごした岩手花巻から、企画展情報です。 

光の詩人 内村皓一展~白と黒の深淵~

期  日 : 2016年12月3日(土)~2017年2月19日(日)
場  所 : 花巻市立萬鉄五郎記念美術館 岩手県花巻市東和町土沢5区135
時  間 : 8時30分~17時(入館は16時30分まで)
休  館 : 月曜日(祝日の場合はその翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
料  金 : 一般400(350)円/高校・学生250(200)円/小中学生150(100)円
       ( )内20名以上団体料金

1914(大正3)年盛岡市に生まれた写真家・内村皓一(1914-1993)は、1940(昭和15)年関東軍に徴用され中国・奉天にわたります。翌16年から2年余りにわたって撮りためたのは、奉天市内の市民や風景。戦争により厳しい生活を送りながらも生き抜く、生々しい市井の人々の姿をとらえた人物像や、戦争のなかでも変わらず美しくあり続ける奉天の風景などでした。終戦後そのなかから30数枚のフィルムを荷物に忍ばせ帰国。残り3,000本は自らの手で焼却しました。
帰国後は花巻市で家業の印刷業を営むかたわら、1947(昭和22)年アムステルダム国際サロン「盗女」「ボロ」「流浪者」「不具者」入賞を皮切りに数多くの国際サロン展に出品。その入選作は2,000点を超え、1950(昭和25)年には、英国ロイヤルアカデミーサロンで「瞑想」グランプリ受賞するなど多くの受賞歴を持ちます。また、戦後花巻に疎開していた高村光太郎と親交を持ち「光の詩人」と称されました。また写真クラブ「皓友会」を結成し後進の指導に努めるかたわら、各国の写真団体と交流展を開催するなど交友をすすめました。1973(昭和48)年には岩手日報文化賞を受賞。昭和59年英国王室写真協会正会員。1993(平成5)年80歳で亡くなるまで後進の指導に尽力しました。
本展では、内村の奉天時代の作品50点に、戦後サロンを中心に発表した女性像や「貌」シリーズをあわせ、初の大規模な回顧展として内村写真の全貌を辿り、これまであまり紹介されることのなかった郷土の美術家を検証します。

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上記紹介にある通り、光太郎と交流のあった写真家・内村皓一の名は、光太郎の日記に散見されます。また、昨年、娘婿に当たる内村義夫氏から、御岳父にあてた光太郎書簡のコピーを拝見させていただきました。また、非常に珍しい光太郎作詞「初夢まりつきうた」のレコードも拝見。さらに、花巻郊外太田村の山小屋(高村山荘)で、光太郎が使っていた皿と同じ物を戴いてしまいました。そのあたりはこちら

さて、その内村皓一の写真展が開催中です。光005太郎を撮った写真も展示されています。開催されることは知っていましたが、光太郎ポートレート出品については存じませんで、紹介していませんでした。

昭和23年(1948)頃、太田村時代の光太郎を撮ったもので、「高村光太郎先生『帰路』」。この頃の光太郎にしては珍しく、きちんとシャツにズボン姿です。大概は国民服や、智恵子の織った布で作ったちゃんちゃんこなどですが、どうも何かオフィシャルな場からの帰り道のようです。

その他にも、日中戦争当時の外地の様子、戦後サロンを中心に発表したものなど、貴重な写真が多数出品されています。

ぜひ足をお運びください。


【折々の歌と句・光太郎】

めづらしき写真機ひたとわれに向くわが身光りてまぬかれがたし
大正15年(1926) 光太郎44歳

光太郎、写真嫌いで有名でした。ただし、晩年になると、そうでもなくなったようです。とはいっても、好きになったというわけでもないのでしょうが。

内村皓一のように、ちゃんと交流のあった相手ではなく、いきなり来ていきなり撮るジャーナリズム系や、パパラッチ的に無遠慮に撮ることを信条としていたカメラマンには、最期まで嫌悪を隠しませんでした。

のち、令甥の規氏が写真家の道を志したと知ったとき、具体名を挙げて、「××のような写真家にはなるな」と釘を刺したそうです。