当方は加盟しておりませんが、「昭和文学会」さんという学会があります。そちらの研究発表会で、光太郎が扱われますのでご紹介します。

昭和文学会 2016(平成28)年度 第59回研究集会

期  日 : 2016年12月10日(土)
時  間 : 午後1時30分より
会  場 : 東京学芸大学 C棟(中央講義棟)302・203教室
        東京都小金井市貫井北町4-1-1
研究発表 :
 第一会場(C棟302教室) 司会 掛野剛史・竹田志保
   尾崎翠テクストにおける「影」への恋 ――「歩行」を中心に ―― 小野光絵
   「女性はみんな母である」――高村光太郎の戦争詩における〈女性〉像の研究――
     アギー・エヴァマリア

   不透明な戦後 ―― 川端康成『舞姫』における舞踊 ―― 杵渕由香
   安部公房「赤い繭」論 ――「寓話」と名付けられること―― 斎藤朋誉
 第二会場(C棟203教室) 司会 河田綾・友田義行
   〈批評文学〉の可能性 ―― 福田恆存「道化の文学」論 ―― 長谷川雅美
   大岡昇平『レイテ戦記』に於ける「人間」と
「全」 中山新也
   中上健次『枯木灘』における語りの構造―― 聴き手としての秋幸 ―― 峰尾俊彦
   石油資源の獲得という大義 ―― 山崎豊子『不毛地帯』を読む視点 ―― 徳永光展


アギー・エヴァマリアさん。首都大学東京大学院生だそうです。おそらく留学生の方でしょう。同会サイトには、「発表要旨」も載っていました。

   太平洋戦時下の戦争詩の多くは、「兵士」や「戦闘」、「死」など〈男性の戦争〉という主題を備えていた。高村光太郎の「彼等を撃つ」や「必死の時」などはその代表作である。だが高村は一方で、女性を歌った戦争詩も残している。太平洋開戦以前、西洋の美に傾倒する『道程』から日本女性に初めて美と愛を見いだす『智恵子抄』まで、高村は女性を様々に表象した。そこでは、特に女性の「肉体」とその肉体に向けられる「性欲」が主題となっていた。こうした女性像は、宣戦布告を経て大きく変貌する。肉体と性欲の要素を削った〈母〉が、作品「女性はみんな母である」や「山道のをばさん」の中に新たな女性像の典型として登場する。一方「少女戦ふ」では、〈母〉以前の女性を「立派な戦士」として称え、戦地の兵士に劣らぬ姿として描いてもいる。本発表は、高村の太平洋戦時下の作品中における女性像に焦点をあて、戦時下の詩における〈女性〉という主題のもと、戦争詩読解の新たな局面を開くことを目的とする。

光太郎の翼賛詩に表れる女性像に焦点を当てた発表だそうです。


発表題に掲げられた「女性はみんな母である」は、昭和17年(1942)、『婦人朝日』に発表された詩です。

   女性はみんな母である009

 女性はみんな母である。
 子あるは言はずとしれたこと、
 不幸、子なきもまた母だ。
 母の神秘は深さ知られず、
 母の愛撫は天地に満つ。
 あたたかし、あたたかし、
 母はあたたかなるかな。
 夫を守る妻は夫の母。
 ひとりある女性は又なく清く、
 母性の磁気を皮膚から発する。
 童女は五尺の男子を慰め、
 白髪(はくはつ)の女性は世を救ふ。
 伊勢にこもらすおんたましひ、
 われらを包みわれらをはぐくむ。
 されば、われらの女性国土にあまねく、
 世にもあたたかき母のかをりを放つ。
 女性はみんな母であり、
 天地は慈愛の室(へや)である。


要旨にもあるとおり、光太郎には女性賛美的な内容の詩作品がかなり存在します。

その理由として、智恵子や夭折した姉のさく(咲)、母のわかなどの影響を指摘する論考は古くからありますし、実際、そうなのでしょう。

しかし、見落としてはいけないのは、作家の主体性とともに、版元の要求、という点です。

光太郎、遠く明治期から、婦人雑誌への寄稿がかなり目立ちます。現在も刊行されている『婦人之友』には、明治45年(1912)から、最晩年の昭和30年(1955)まで、50篇を超える寄稿をし、大正期には連載まで持っていました。その他にも『婦人くらぶ』、『女子の友』、『婦女界』、『女子文壇』、『家庭』、『大正婦人』、『淑女画報』、『婦人雑誌』、『婦人週報』、『新家庭』、『家庭週報』、『婦人画報』、『女性日本人』、『女性』、『婦人の国』、『婦人公論』、『主婦之友』、『婦人世界』、『オール女性』、『新興婦人』、『女性時代』、『女性線』、『女性教養』などなど……。

詩にしても散文にしても、光太郎作品は非常にわかりやすい日本語で書かれ、それでいて含蓄や示唆にも富み、女性読者からの支持が大きかったのではないかと思われます。

となると、そういう雑誌に載せる詩文だから、女性賛美的な内容になるのはある意味当然のことで、筆を曲げる、というわけではないのでしょうが、発表誌と内容との関連については、考える必要があると思います。

光太郎レベルになると、「こういう物を書いたからそちらの雑誌に載せて下さい」ではなく、「こういうものを載せたいからうちの雑誌に書いて下さい」と頼まれるわけで、もっとも、書くのが嫌なら断ればいいのでしょうが、生活のためにはそうもいかないという部分もあり、簡単にはいかないと思いますが……。

こういう点は、翼賛詩にも当てはまるような気もします。

「書きたいから書く」と「頼まれたから書く」、あるいは「書きたいと思っていたところにちょうど頼まれた」もあるでしょうし、このあたりは本当に想像するしかありませんね……。

最近、いろいろ原稿依頼があり、そういったことも考えさせられる今日この頃です。


【折々の歌と句・光太郎】

足もとの小さき石より風起こり落ち葉巻くなり七つ八つほど
大正8年(1919) 光太郎37歳

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自宅兼事務所裏山のイチョウ。箒になるのは、もうすぐのようです。