昨日は、文京区のアカデミー茗台において、第61回高村光太郎研究会でした。

当会及び高村光太郎研究会顧問の北川太一先生もおいで下さり、貴重なお話をいただけました。

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司会はは佛教大学総合研究所特別研究員・田所弘基氏。昨年は発表をされました。

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最初の発表は、高村光太郎研究会主宰の野末明氏。智恵子の姪・長沼春子と結婚して光太郎と姻戚となった詩人、宮崎稔に関してでした。

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『高村光太郎全集』には、光太郎日記中、宮崎に関する記述がかなりあったり、宮崎宛の膨大な書簡が掲載されたりしており、さまざまなところで光太郎と関わったことはわかっていますが、それ以外の事績がよくわかっていません。光太郎より早く亡くなってしまい、結局、無名の詩人として生涯を終えた人物です。

野末氏、数年前から宮崎についてコツコツ調べていらっしゃいまして、今後も継続される由、その成果に期待したいものです。

続いて、当方の発表。

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先だって、福島県いわき市の草野心平生家で開催された、当会の祖・草野心平を偲ぶ「没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」で講話を仰せつかり、一般の方々に向けてお話しさせていただいた内容を、多少、専門家向けにアレンジしました。

いわきでは持ち時間が40分と決められており、ほんとに概要だけのお話になってしまいましたが、昨日はがっつり時間を取らせていただきました。

光太郎と心平、二人の出会いは大正14年(1925)。やはり詩人の黄瀛(こうえい)に連れられて、心平が駒込林町の光太郎宅を訪れた日のことでした。時に光太郎数え43歳、同じく心平23歳。ちょうど20歳違いの二人の天才の邂逅でした。

二人はたちまち意気投合し、長い交流が始まります。そこには、お互いの芸術、そして人間性に対する深いリスペクトがあったように思われます。そして、お互いにお互いのために、いろいろなことをやりました。


まず、光太郎から心平に。

『銅鑼』、『学校』、『歴程』といった、心平が主宰していた詩誌に、光太郎は実に多くの作品を寄稿しています。また、心平が関わった『歴程詩集』などのアンソロジーにも。光太郎の作品が載っている、ということで、売り上げに貢献したと考えられます。

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次に、心平の詩集の序文執筆、装幀など。光太郎は中原中也や八木重吉、宮沢賢治など、色々な詩人に対してこの手の仕事をしていますが、心平のそれに対しては6冊にのぼり、最多です。

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それから、心平の経営していた焼き鳥「いわき」(戦前)、居酒屋「火の車」(戦後)に足繁く通うなどの、経済的援助。

そして、これが一番大きいと思うのですが、総合的な芸術家としての手本を示したこと。彫刻、詩、絵画、書、翻訳、短歌、俳句などなど、実にさまざまな分野で足跡を残した光太郎。むろん、光太郎の影響ばかりではないのでしょうが、心平も詩以外に、絵画や書で優れた作品を遺しています。そしてそれぞれ、根底に光太郎と共通する何かが流れているような気がします。

詩もそうです。非常にわかりやすい光太郎の詩と、「蛙語」を使うなどの前衛的な心平の詩。一見、対極のようにも思えますが、権威的なものへの反抗、力強さ、生命讃歌的な内容、自由闊達さといった点で、やはり同じ精神の顕現です。

また、文学史的に見ると、光太郎はそれまでの文語定型詩を打破し、心平は「詩」という概念そのものを破壊しようとしたのではないかと思われます。ともに、既成のものへのレジスタンスですね。

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続いて、光太郎と心平の共同作業。それは、無名、若手詩人の発掘、援助、顕彰です。

主に心平と同世代で、『歴程』同人だった詩人たち――宮沢賢治、馬淵美意子、八木重吉、猪狩満直、尾形亀之助、石川善助、竹内てるよ、永瀬清子、伊藤信吉、黄瀛、中原中也、逸見猶吉、鳥見迅彦、藤島宇内ら――。彼らを世に送り出し、早世した者にはその顕彰活動と、心平は奔走しました。詩の実作者としての姿の蔭にかくれがちですが、そうした心平のプロデューサー的手腕も、もっと評価されていいと思います。そして光太郎も、全集等の編輯、著書の序文、装幀などで協力しました。


一方、心平から光太郎へ。

まず、『銅鑼』や『歴程』などで、光太郎に発表の場を提供したこと。まぁ、これは持ちつ持たれつという感じですが。


それから、光太郎詩集等の編集、解説執筆など。

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この中には、現在も版を重ねている新潮文庫版の『智恵子抄』なども含まれます。


さらに、雑誌などに光太郎評論、近況などを執筆、没後は回想などを多数執筆、テレビ等で談話をしたりといったこと、それらをまとめ、多くの光太郎関連書籍等を編集したり、書き下ろしたりしたこと。

その代表作が昭和44年(1968)に刊行された『わが光太郎』ですが、それに収められていないものも同程度の分量、ことによるとそれ以上あると思われます。また、『草野心平全集』は、単行書として刊行されたもののみを対象としているため、それらをまとめて読むことが出来ません。『続・わが光太郎』の刊行が望まれます。


そして、光太郎生前(特にその晩年)には、身の回りの世話を焼き、歿後には心平自身が歿するまで、光太郎の顕彰活動を続けたこと。

昭和32年(1957)の第一回連翹忌、発起人代表は心平でしたし、その後の10年間限定で実施された、造型と詩、二部門の「高村光太郎賞」の運営、美術館等での光太郎智恵子展への協力、各地の光太郎文学碑建立、花巻高村記念館への協力などなど。

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ついでに言えば、心平は同郷だった智恵子の顕彰にも力を入れたり、光太郎の実弟・豊周、その子息・規との交流もさかんだったりしました。


そう考えると、心平は、光太郎生前に知り合ってから、光太郎が歿するまで30年と少し、光太郎が歿してから、心平自身が亡くなるまでの30年と少し、合計60年以上を、光太郎の顕彰活動その他に費やしてくれたわけです。

まがりなりにも現在まで光太郎(智恵子も)の名が、世の中から忘れ去られていない背景には、こうした心平の業績が欠かせなかったのだと、今回、あらためて痛感しました。


さて、光太郎は心平をこう評しました。

 詩人とは特権ではない。不可避である。
 詩人草野心平の存在は、不可避の存在に過ぎない。云々なるが故に、詩人の特権を持つ者ではない。
 (略)
 詩人は断じて手品師でない。詩は断じてトウル デスプリでない。根源、それだけの事だ。
   (光太郎 「草野心平詩集「第百階級」序」昭和3年=1928)
  ※ tour d'esprit 性格

一方の心平は、

 光太郎は巨人という言葉が実にピッタリの人であった。
 (略)
 巨人と言われるのにふさわしい人物は世の中に相当いるにはちがいないが、私がじかに接し得た巨人は高村光太郎ひとりだった。
      (心平 「大いなる手」昭和43年=1968)

とのことでした。


そんな二人をそばで見ていらした、当会顧問・北川太一先生のお言葉。

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高村さんと話をしていると、ふと草野さんの名前が出る。そんな時、いつも高村さんの顔にうかぶ微笑の、いかにもあたたかく、楽しげな表情を忘れない。「こんどの日曜に草野君とNHKの対談をやるんだそうで、草野君が引受けてきてしまった。断わると草野君の会計にひびくんでね」。文字にすればそっけない言葉の裏側の無類のいつくしみと信頼を、なんだかねたましく感じたものだ。
(北川太一「高村光太郎との断片」 平成2年=1990 『歴程』心平追悼号)

こと光太郎に関する限り、心平は両肌ぬぎで事に当った。光太郎を記念する仕事のいつも中心にいた。その間にも見た、惚々するような笑顔と怒り。光太郎が残したものを正しく伝えるために、最も親しい友とも一度ならず争った。
(略)
ひとかけらの私心もない、光太郎のためのいちずな怒りは、結局、相手も傷つけなかった。
(北川太一「人と作品 心平と光太郎」
 平成2年=1990 『わが光太郎』文庫版)

僕の掌はいつもはっきり覚えている。光太郎の大きな、つつみこむようなあの掌と、何度も何度も光太郎のことを遺託した心平の、厚く、熱く、痛いほど強い掌の握力を。
(同前)


と、まぁ、こんな発表をさせていただきました。合間には、二人の肉声や動画を流し、気がつけば85分ほどかかりまして、申し訳なかったのですが、おおむね好評でした。

資料としてお配りした二人の交流年譜(現在、もっとも詳細なものと自負しております)、発表のレジュメ、それぞれ残部があります。ご入用の方はこちらまで。


【折々の歌と句・光太郎】

弘法の修行が巌の洞(ほら)に似る大口あけて何を語るや
明治42年(1909) 光太郎27歳

誰が、という主語が抜けていますが、日本の女性たちが、です。

一昨日、昨日、それから7月にもこのコーナーでご紹介した、欧米留学からの帰朝直後、日本女性に対する失望を露わにした連作の一つです。

100年前はいざ知らず、現今は女性たちも大活躍ですね。昨日の研究会にも、各地から才媛の皆様がご参加下さいました。