一昨日から昨日にかけ、福島浜通り相双地域に行っておりました。

当会の祖・草野心平を顕彰する川内村での「第6回天山・心平の会 かえる忌」、及びいわき市の草野心平生家での没後29回忌「心平忌」 第23回心平を語る会」出席のためでしたが、他にも足をのばして参りました。

まずは、圏央道、常磐道と乗り継ぎ、川内村へ行くには常磐富岡インターで下りますが、一つ先の浪江インターまで行って、南相馬市南部の小高地区を目指しました。

そのあたり、今年の7月になって、ようやく原発事故からの避難指示が解除された区域です。しかし、いまだにそれが解除されていない区域も近くにあります。

道々、目に映る光景はこんな感じでした。


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ナビの指示通りに行こうとすると、通行止めになっている箇所がまだありました。何でもない農村風景も広がっているのですが……。

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浪江町と南相馬市の境界あたりでは……

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一見、のどかな放牧風景に見えますが……

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何やらもめている気配ですね……。

さて、南相馬市小高区に入り、目的地に着きました。これです。

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昭和30年(1955)に建立された「開拓碑」。光太郎詩「開拓十周年」が刻まれています。筆跡は光太郎のものではありませんが。

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長い詩なので、三段にわたっています。

 開拓十周年
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 赤松のごぼう根がぐらぐらと
 まだ動きながらあちこち残つていても、
 見わたすかぎりはこの手がひらいた
 十年辛苦の耕地の海だ。
 
 今はもう天地根元造りの小屋はない。
 あそこにあるのはブロツク建築。
 サイロは高く絵のようだし、
 乳も出る、卵もとれる。
 ひようきんものの山羊も鳴き、
 馬こはもとよりわれらの仲間。
 
 こまかい事を思いだすと
 気の遠くなるような長い十年。
 だがまた、こんなに早く十年が
 とぶようにたつとも思わなかつた。
 はじめてここの立木へ斧を入れた時の
 あの悲壮な気持を昨日のように思いだす。

 歓迎されたり、疎外されたり、
 矛盾した取扱いになやみながら
 死ぬかと思い、自滅かと思い、
 また立ちあがり、かじりついて、
 借金を返したり、ふやしたり、006
 ともかくも、かくの通り今日も元気だ。
 
 開拓の精神にとりつかれると
 ただのもうけ仕事は出来なくなる。
 何があつても前進。
 一歩でも未墾の領地につきすすむ
 精神と物質との冒険。
 一生をかけ、二代、三代に望みをかけて
 開拓の鬼となるのがわれらの運命。
 食うものだけは自給したい。
 個人でも、国家でも、
 これなくして真の独立はない。
 そういう天地の理に立つのがわれらだ。
 開拓の危機はいくどでもくぐろう。
 開拓は決して死なん。
 
 開拓に花のさく時、
 開拓に富の蓄積される時、
 国の経済は奥ぶかくなる。
 国の最低線にあえて立つわれら、
 十周年という区切り目を痛感して
 ただ思うのは前方だ。
 足のふみしめるのは現在の地盤だ。
 静かに、つよく、おめずおくせず、
 この運命をおおらかに記念しよう。


碑が建てられた同じ昭和30年(1955)に岩手県盛岡市の県教育会館で行われた、岩手県開拓十周年記念大会に寄せたものです。詩を作ったのは、結核による死の半年前。かつて岩手の太田村で、自らも開拓にあたったり、開拓農民と親しく交わったりした経験を下敷きにしています。

雑誌等に掲載された記録が確認できていませんが、どうやら光太郎の詩稿を凸版印刷した一枚物が作成され、全国の開拓関係者に配布されたらしいことはわかっています。

それを読んで感動したのでしょうか、ここ小高区の金房開拓農業協同組合として、この碑を建立したというわけでしょう。中心人物が平田良衛という人物だったと判明しましたので、今後、光太郎との関わりなど、少し調べてみるつもりです。

それにしても、この地の現状と対比すると、胸が痛みます。


この碑、十数年前に見に行き、今回が2度目でした。海からは遠いので、津波の被害は心配ありませんでしたが、地震の揺れ自体で倒壊していたりしていないだろうかなどと思い、以前にも相馬方面に用があった際に、見に行こうと思ったのですが、前述の通り、今年の夏まで近づけませんでした。もしかすると、行けるだけは行けたのかも知れませんが、通行止めなどのオンパレードで断念しました。

正式に光太郎文学碑として建立されたものではありませんが、光太郎生前の数少ない(確認できている限りでは三基)詩碑の一つです。健在だったので安心しました。

ところが、周囲は前述のような状況です。避難指示が解除になったといっても、ほとんど人に会うこともなく、すれ違う車も除染作業などの関係ばかりでした。

しかし、この詩の精神を踏まえ、また再びこの地を新たに開拓していって欲しいものです。

昔のこの碑の写真と比べると、碑全体がきれいになっているように感じます。もしかすると、地元の皆さんがこの詩の精神を踏まえ……と考えて下さっているのかも知れません。


被災地がこういう状況でありながら、日本政府はインドへの原発輸出を可能にする原子力協定に調印しました。安全神話で作られたメルトダウンする原発、処理に何万年もかかる使用済み核燃料、いまだに故郷に帰れない多くの人々、事故が起きれば取り返しが付かない現実……あきれてものも言えません……。


明日は双葉郡川内村をレポートします。


【折々の歌と句・光太郎】

月黒く大河の上に人の血の流るる世なり魔神の世なり
明治33年(1900) 光太郎18歳

「魔神の世」と感じる福島南相馬でした。