一昨日、文京シビックセンターさんでの「平成28年度文京区企画展「賢治と光太郎――文の京で交錯する二人」を拝見した後、次なる目的地、豊島区目白に向かいました。
目指すは切手の博物館さん。11/3~6の4日間、開館20周年記念特別展<秋>「著名人の切手と手紙」が開催され、光太郎の葉書も展示されているという情報を得たためでした。





観覧料200円(安!)を払い、3階の会場へ。
室内に入ると、周囲の壁には、<著名人の切手原画>というわけで、切手のデザインに使われた著名人の肖像画、それから<風景印の中の有名人>という題で、いわゆる「初日カバー」という、その切手の発行日当日の消印が押された封筒が並んでいます。著名人をあしらった切手、そして押されている消印が風景印――地方局などのオリジナル――というわけです。
展示室中央に平台型のガラスケースが配され、そこに<著名人の手紙>というわけで、10通あまりの書簡が展示されていました。敬称略で高峰秀子、森繁久彌、三船敏郎、大河内傳次郎、円谷英二、淀川長治、棟方志功、岸田劉生、川端康成、室生犀星、司馬遼太郎、そして光太郎。
拝見に伺う前、、『高村光太郎全集』等に収録されていない新発見のものの可能性があると思っていましたが、今回もまさにその通りでした。
比較的長命だった上、筆まめだった光太郎ゆえ、こういうことがよくあります。以前にも展示会場に行ってみて、これは新発見だ、ということが何度もありました。
今回展示されていたのは、高崎正男という人物に宛てた、昭和21年(1946)3月のハガキでした。高崎正男という人物については明らかに出来ませんでした。『高村光太郎全集』には名前が見えません。画家の長谷川利行のパトロンだった同名の人物が居ましたが、同一人物とは考えにくいところです。というのは、展示されていた葉書が光太郎の短歌をまとめた歌集出版の提案を却下する内容だったためです。
光太郎、郵便物の授受をかなり克明に記録した「通信事項」というノートが現存しており、昭和21年(1946)の項を見ると、3月20日に「高崎正男氏へ返ハカキ」の記述があります。まさに展示されていたハガキです。ところが遡って見ても、高崎からの受信記録がありません。受信の記録がないのに返信の記録だけ、というのも奇妙な話です。
さらに調べてみると、3月18日に「六都書房からテカミ」という記録がありました。「六都書房」という出版社は存在せず、「六都書店」の誤りのようで、ここはこの年に、光太郎とも交流のあった竹内てるよの歌集『永遠の花』を刊行している版元です。短歌をキーワードとして捉えると、高崎はこの六都書店の編集者なのでは、と推定できます。確定ではありませんが。
こういうところで色々と推理を働かせるのも、光太郎研究の醍醐味の一つです。
ちなみにハガキの文面に「先日も、養徳社といふところから同様の事を申してまゐりましたが、やはりお断りしました。」という一節がありました。「養徳社」は奈良に本社を置く出版社で、前年に吉井勇編『現代名歌選』を上梓、光太郎短歌「海にして……」も収録されています。この年2月には、養徳社の喜田聿衛にあて、同書受贈の 礼と、やはり歌集出版申し出に対する断りがしたためられています。こちらは『高村光太郎全集』収録済みです。
おてがミ拝見しましたが小生歌集を出す気にはなりません。歌は随時よみすてゝゆきます。書きとめてもありません。うたは呼吸のやうなものですから、その方が頭がらくです。吉井勇さんの「現代名歌選」は忝く拝受しました。
短歌に対する光太郎のスタンスはこういうことでした。


ところが、翌年には詩人の宮崎稔(智恵子の最期を看取った姪・春子の夫)が、光太郎の承諾を得ず、半ば強引に光太郎の歌集『白斧』を刊行してしまっています。これにはさすがに光太郎も怒ったようですね。
さて、切手の博物館さんでは、今回の展示とリンクした書籍を刊行されました。
著名人の切手と手紙
2016年11月20日 平林健史他編 一般財団法人切手の博物館発行 ㈱郵趣サービス社発売 定価926円+税
第一章 著名人の手紙
高峰秀子、三船敏郎、大河内傳次郎、森雅之、芥川比呂志、円谷英二、棟方志功、岸田劉生、上村松園、前田青邨、竹内栖鳳、高村光太郎、川端康成、高浜虚子、司馬遼太郎、著名人似顔絵館
第二章 日本うたよみ紀行
宮沢賢治、竹久夢二、夏目漱石、芥川龍之介、岡本かの子、正岡子規、川上音二郎、南方熊楠、白瀬矗、日本切手のなかの著名外国人
第三章 文化人切手ゆかりの地を往く
樋口一葉・森鷗外、九代目団十郎・野口英世、坪内逍遙・木村栄、寺田寅彦・内村鑑三
第四章 切手人名録 著名人226名の横顔
芸能人、文学者、芸術家、学者・思想家ほか、切手に最も多く登場する著名人・前島密、政治家・軍人ほか、アスリート、歴史上の人物(江戸時代以前)
第五章 切手の博物館ガイド
展示されていた光太郎のハガキについても紹介されています。また、光太郎肖像が使われた平成12年(2000)発行の「20世紀デザイン切手」についても。


同館で販売していますし、Amazonにもアップされていました。ぜひお買い求めを。
【折々の歌と句・光太郎】
今にして弱くねぢけしわかき日のおぞのすがたを見ておどろかず
昭和18年(1943) 光太郎61歳

前年に刊行された第一詩集『道程』と同じ版元、抒情詩社からで、『傑作歌選別輯 高村光太郎 与謝野晶子』。
社主で詩人でもあった内藤鋠策が、やはり半ば強引に出版したものですが、光太郎の窮乏を救う意味合いで、売れっ子の晶子とセットにしたそうです。
時を経て昭和18年(1943)、詩人の風間光作から、この旧著にサインを求められ、扉に上記短歌を揮毫しました。
「おぞ」は「おぞましい」の「おぞ」。ただし、「おどろおどろしい」という意味よりは、古語「おぞし」としての「強情だ・気が強い」「ずるがしこい」的なニュアンスではなかろうかと思われます。