静岡から演奏会情報です。


清水合唱団第35回記念演奏会
期 日 : 2016年10月30日(日)
時 間 : 開場13:00 開演13:30
会 場 : 静岡市清水文化会館マリナート大ホール 静岡市清水区島崎町214
料 金 : 1,000円
曲 目 : I.ホームソング 日本編
II.ミサ曲 CARLO ROSSINI MISSA”ADESTE FIDELES"
II.ミサ曲 CARLO ROSSINI MISSA”ADESTE FIDELES"
III.ポピュラーステージ 編曲:山室紘一・鈴木幸一
Ⅳ.混声合唱組曲 猛獣篇 佐藤敏直作曲
Ⅳ.混声合唱組曲 猛獣篇 佐藤敏直作曲
指 揮 : 山根悦子
ピアノ : 三浦ゆきの

光太郎詩に佐藤敏直氏が曲を付けた「混声合唱組曲 猛獣篇」がプログラムに入っています。
元々は昭和63年(1988)、専修大学グリークラブさんの依嘱で男性合唱曲として作曲され、平成2年(1990)にはカワイ出版さんから楽譜も刊行されました。「森のゴリラ」「傷をなめる獅子」「ぼろぼろな駝鳥」「マント狒狒」の4曲でした。
そして、同じく平成2年(1990)から5年(1993)にかけ、南生田コーラスさんの依嘱で混声版が新たに作られています。ただし、総題は同じ「猛獣篇」ですが、曲目は「龍」「象」「傷をなめる獅子」「苛察」。「傷をなめる獅子」は男声版から混声へのアレンジですが、他は新作です。平成22年(2010)にやはりカワイ出版さんから楽譜が出ています。


今年7月、清水合唱団の団員の方がこのブログをご覧下さり、当方宛メールが届きました。組曲に入っている詩の解釈についての質問で、とりあえずわかる範囲でお答えいたしました。
先週もメールを頂き、団内広報紙で当方のレクチャーをご紹介下さり、団員の皆様から「詩がすごくいい」「曲の理解が深まった」といった声があったとのことでした。
歌曲の場合、メロディーと歌詞は不可分のものです。演奏者はそのそれぞれについて深く探求して臨むべきものでしょう。そういう意味で、清水合唱団さんの取り組みは素晴らしいと思います。当方もアマチュア合唱団に所属していますが、なかなか団としてそういった取り組みまでには至っていません。
もっとも、光太郎はこの問題に関し、次のように述べています。
随分つまらない詩から立派な音楽も出来るし、随分立派な詩からつまらない音楽も出来る。それは詩人の知つたことではない。
(略)
私はいつでも詩歌の作曲を聴く時、純粋に唯作曲家の魂と感覚とを感じて十分に満足する。決して其を詩歌のテキストに還元して考へるやうな無駄はしない。自分の詩が歌はれるのをきいても自分の詩が些少もその音楽に参加してゐるとは感じない。
(「詩人の知つたことではない」 昭和8年=1933)
演奏者としての観点からみると、前半はともかく、後半には承服しかねます。やはり歌曲の場合、詩と音楽は不可分だと思います。たしかに詩句をどう音楽的に処理するかという部分は「作曲家の魂と感覚」に依るところがほとんどでしょうが、「ここはこういう言葉なんだから、こういうメロディーラインにする」「詩人のこうした心情を表現するために、こういうハーモニーにする」ということは大いにあり得ますし、逆にいえばそれが不十分である作品こそが「つまらない音楽」なのではないでしょうか。そして演奏者は詩人、作曲家それぞれの意図を汲み、演奏に生かすべきだと思います。
光太郎、音楽にも造詣が深かったのは確かですが、やはり自分で本格的に演奏をするということはなかったので、演奏者あるいは作曲者としての視点は持ち得なかったのでしょう。
何はともあれ、清水合唱団さんの演奏会、盛会を祈念いたしております。
ところで歌ということでもう一件。今年のノーベル文学賞、歌手のボブ・ディラン氏が受賞というニュースが入ってきました。意外といえばこの上なく意外ですが、やはり詩と音楽は不可分と考えれば、納得の受賞です。
ノミネートの段階では「これまでの歌詞とは異質の『詩』を歌い、ポピュラー・ミュージックを革新し、詩が歌と同じ『声の文化』であることを再認識させた」という理由だったそうです。
ところで、以前から気になっていましたが、ディランの代表作の一つ「風に吹かれて」の三番はこういう歌詞です。
How many times must a man look up
Before he can see the sky?
Yes, 'n' how many ears must one man have
Before he can hear people cry?
Yes, 'n' how many deaths

Before he can see the sky?
Yes, 'n' how many ears must one man have
Before he can hear people cry?
Yes, 'n' how many deaths
will it take till he knows.
That too many people have died?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.
That too many people have died?
The answer, my friend, is blowin' in the wind,
The answer is blowin' in the wind.
これを、壺齋散人氏という方が、このように訳しています。
どれほど人は見上げねばならぬのか
ほんとの空をみるために
どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
他人の叫びを聞けるために
どれほど多くの人が死なねばならぬのか
死が無益だと知るために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
ほんとの空をみるために
どれほど多くの耳を持たねばならぬのか
他人の叫びを聞けるために
どれほど多くの人が死なねばならぬのか
死が無益だと知るために
その答えは 風に吹かれて
誰にもつかめない
原文は単に「sky」なので、「ほんとの空」と訳すのは意訳ですが、ここだけ読むと、まさに東日本大震災に伴う福島第一原子力発電所の事故による、智恵子の故郷・福島の現状のようにも感じられます。しかし、この曲のリリースは何と昭和38年(1963)。ディラン氏によるフクシマの予言、というと考えすぎでしょうか……。
【折々の歌と句・光太郎】
爪きれば指にふき入る秋風のいと堪へがたし朝のおばしま
明治43年(1910) 光太郎28歳
「おばしま」は漢字で書くと「欄」。出窓の手すり的な感じでしょうか。そこに坐って爪を切ると、秋風が吹いてきたよ、といったところでしょう。