今週月曜日の『日本経済新聞』さん。文化面で「あをによし奈良への憧憬十選」という連載が為されていて、その9回目です。

あをによし奈良への憧憬十選 9 細谷而楽「翁舞像」

 「翁」の面をつけて老人が舞う。「翁」とは「能にして能にあらざる曲」とも呼ばれる神聖な儀式の能曲。演者が神となって言祝(ことほ)ぎ、舞って天下泰平や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る。
 この人形はその「翁」を舞う姿を造ったものだ。面や衣装に至るまでこまやかに表現されていて、彫刻の固さはさほど感じられない。
 これは木彫ではなく、天平時代の興福寺阿修羅像などと同じ「乾漆」という技法で造られている。作者は群馬県出身の細谷而楽(じらく)。東京美術学校塑像科で高村光雲に師事し、その後、奈良で仏像修復を扱う美術院で活躍する。特に乾漆彫刻の伝統技術を解明し、修復につなげた功績は大きく、新薬師寺十二神将の宮毘羅(くびら)大将(寺伝は波夷羅(はいら)大将)や法隆寺吉祥天像の修復は名高い。
 その技術が人形にも生かされている。細谷は昭和初期に春日大社が古典芸能の保存継承を目的に創設した「春日古楽保存会」で、金春流能楽師・桜間金太郎の舞う姿を見て、この乾漆で百体もの像を造ったという。これはその内の一つだ。
 奈良の文化財が今に守られ伝えられているのは、細谷のような人材と技術があったからだろう。その偉大な功績をしのぶよすがの翁舞像である。(1925年、乾漆彩色、像高36.3×幅18.7㌢、個人蔵)

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而楽細谷三郎。東京美術学校で光雲に師事、とありますが、学年としては光太郎と同期で、光太郎とのツーショット写真も残っています。左が細谷、右が光太郎。明治30年(1897)、光太郎14歳です。二人の奇妙な服装は、初期の東京美術学校の制服。「闕腋(けってき)」と呼ばれる昔の服を参考に制定されましたが、不評だったため程なく廃されました。

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細谷は明治8年(1875)または11年(1878)の生まれとされ、光太郎より8歳ないし5歳年長です。初期の美校ではさまざまな経歴の入学者がおり、生徒の年令の幅は広かったようです。

光太郎の文章等にもたびたび細谷の名が出て来ます。明治35年(1902)、それぞれが美校を卒業した際の卒業制作では、光太郎が日蓮(『獅子吼』)、細谷は俊寛と、それぞれ僧侶をモチーフにしたこと、同じ年の暮に、まだ実家で暮らしていた光太郎の彫刻室が火事で全焼した際に、後片付けの手伝いに来てくれたことなど。

卒業後、細谷は『日経』さんの記事にあるとおり、仏像修復の分野で活躍します。これには光雲が古社寺保存会の仕事もしていたため、そうした分野にも弟子たちの道筋を付けてやっていたという背景もあります。甲冑師の後裔だった明珍恒男などもそのクチでした。

それだけでなく、乾漆による実作でも上記のような秀作を残した細谷。この部分でも光太郎との関わりがあります。

昭和2年(1927)、青森十和田湖の道路整備等に尽力し、国立公園指定の礎を築いた地元の村長・小笠原耕一が歿しました。すると、小笠原と共に十和田湖周辺の開発を進めた元青森県知事の武田千代三郎が、盟友の死を悼み、自ら小笠原の塑像を制作しました。その原型を乾漆で完成させたのが細谷でした(画像左)。また、武田は自身の乾漆像の制作も細谷に依頼(画像右)。二つの像は十和田の蔦温泉にあった薬師堂に納められました。

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戦後になって、小笠原、武田、そして両者と親しく、文筆で十和田湖の魅力を広く世に紹介した大町桂月を併せた「十和田の三恩人」を顕彰する功労者記念碑として計画されたのが光太郎最後の大作「十和田湖畔の裸婦群像(通称・乙女の像)」です。

戦前から民間レベルで進められていた顕彰運動に細谷が関わっていて、戦後には光太郎がそのしめくくりに携わっているわけで、不思議な縁を感じます。

細谷而楽。もっと注目されていい作家だと思います。


【折々の歌と句・光太郎】

気ちがひといふおどろしき言葉もて人は智恵子をよばむとすなり

昭和13年(1938)頃 光太郎56歳頃

昨日の「ひとむきに……」同様、昭和16年(1941)刊行の『智恵子抄』に収められました。「おどろしき」は「恐ろしい」。

戦後、花巻に疎開した折、智恵子遺品の紙絵「いちご」にこの歌を添え、世話になった総合花巻病院長・佐藤隆房に謹呈。現在も花巻高村光太郎記念館に所蔵されています。

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